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2022/08/02

BGM: Seiji Toda "Slow Ballad"

片岡義男『日本語で生きるとは』という本を読む。片岡義男の論述は『日本語の外へ』にしてもそうだけれど、実に緻密に進む。悪く言えばどこかくどいというか、遅々として進まないところがある。むろんその遅さは彼がなあなあで展開する論述を嫌い、きちんと自分と意見を異にする他者にも納得させたいと考える律儀さから来るのだろう。その誠実さには頭が下がる。彼は日本語が主観を提示する言葉であると主張するが、彼の思考はその意味では英語的であるとの印象を抱く。徹底的に客観的かつ理知的に、意見を提示し相手の批判を仰ぐ。その姿勢に凄みを感じた。

DiscordやWhatsAppやLINEで英語でやり取りをし、あるいはこうして日本語や英語で発信するようになってずいぶん経つ。何だか自分の中で英語を使うことにそんなに抵抗感や違和感もなくなり、自然な営みとして英語が自分の中から出てくるようになった。かつては自分も「国際化」や「グローバリゼーション」に取り憑かれ、語学において(も)優秀でなければとプレッシャーを感じて焦ったものだ。今はそんな劣等感は抱かない。それはもちろん英語を喋れるようになったからではなく(本格的な国際人とは3ヶ国語ぐらい喋れて当たり前だろう)、自分自身が「この程度」であることを受け容れられるようになったからだと思う。

「この程度」の自分。それは、遂に作家を目指しつつも村上春樹にもJ・K・ローリングにもなれなかった自分がここにいることを受け容れることである。だが同時に、私は私だけの道を通って今の私のようになったこと、そんな人生をこの一個の身体で生きた事実を噛み締めることでもあるのだと思う。そう思えばなるほど味わいのある人生だったと思う。ひどくゲスなことを言えば村上春樹もローリングも7年間断酒し続ける人生なんて歩んだこともないだろう、というように(いや、こういうことを言い出せば優越感を競うことになって精神衛生上よくないのだが)。

人間は万能ではないこと、愚かであること、間違いを犯しうるということ。そうした前提から思考を組み立てる。それが(私が理解する)保守主義の考え方であると思っている。私自身もまた間違いや矛盾に満ちた人間なので(公の場では誠実に振る舞いつつ私的空間では極めて独善的かつエッチな欲望に溺れる、など)「リベラル保守」(中島岳志)の考え方に学びつつ物事を考えている。そして、私はいつも自分自身を疑うようにしている。自分は間違いうるし、間違うこと自体は人間なので当たり前に起こることでちっとも恥ずかしいことではない。が、間違いから学べないことは恥ずかしい、と思っている。そんなタフネスと繊細さを、私は英語を学ぶ過程で身につけようとしてきたと思う。そして、まだ完全に身につけられたとは言えないとも。

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