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丁寧かどうか分からない暮らし
物は捨てるが、本は捨てられず。
飯は作るが、酒も飲む。
酌をしても一人。
ごく簡潔に申し上げると、私の暮らしぶりはこのようなものです。人と会う場では正気をつくろって世間の目をすり抜け、巣穴へと逃げ帰ったときにはみずから快楽の渦に身を投げ込みます。人の煩悩なんて、たった百八個なもんですか!除夜の鐘には、疑義を呈さざるをえません。
現代っ子を気取って、インスタなんてものを更新していると、知人には丁寧な暮らしだと評されます。逆に知人からは、ドーセイやケッコンだとか、私生活の移ろいをよく聞かされます。
生活はつづく。決して無為ではなくとも、変わり映えのない日々を尻目に、黙々と。それでも時おり寂しくなって、インターネットをひとすくい、だきしめてしまいます。
内弁慶が極まり、もはや救えぬネット弁慶となった私には、煩悩をせまい湾へと垂れ流す悪癖があります。さらに悪いことに、人目を恐れて、少しだけかしこまって垂れ流します。
臆病にも鍵をかけてはこっそりと、あなたの向こう側に現れて、ひとたび、生存報告をするのです。誰が聞いているか分からなくとも、ひっそりと気を遣うふりをしながら、手を振って。
私はずるいのです。丁寧な生活を見下しながら、丁寧な生活を演じてしまっているのだから。今に、餓鬼に襲われる夢を見て、夜な夜な魘されるに違いありません。
悪く思われたくないという見栄が、私を縛りつけて、質朴さをうっかり、石ころを玉のように磨いてしまいます。目の前の君と仲良くなることはきっと敵わないから、目の前のあなたにせめて嫌ってほしくないのです。
いや。ほんとうは、私を縛りつけるものなど何もないのかもしれません。浅瀬を泳げないふりしては向こう岸からささやかに微笑む素振りなんて見せてやっているだけかもしれません。
それでも、久しぶりに会う人たちに「インスタ見てるよ」だなんて言われると、無邪気に喜んでしまいます。恥ずかしくなって、小さな声で礼を言うのが関の山ですが、実はかなり嬉しいです。
少し前から、後輩におだてられたことを鵜呑みにして、インスタグラムの刹那的なあれこれを魚拓として残しはじめました。ハイライトに残せるほどの明度も彩度もないはずなのに。
鵜の真似をして、溺れているのです。通りかかったら魚もろとも掬い上げてください。
元来友人もそう多くないので、少し離れたところを揺蕩って、たまに人の前に姿をあらわすような、靄がかった存在でもあまり困らなかったはずでした。
年を重ねて周りは、大きな波が渦巻いています。深い人の交わりの波です。やにわに起こった波は、海をかくし、空の半分をかくし、暮らしのほとんどをかくしてしまいます。
ふだんは少しの酒と佳肴が、欲のようなものを、いとも簡単に、私を満たすのです。みたされた心はいつも小さい。小さくて、悲しい。
今日も、生活はつづく。暮らす、こぢんまりと暮らす。うねる水面に、ぽつねんと。折を見て、少しだけばた足。ほんとうは大きく手を伸ばして、私も海をだきしめていたいのです。