ちゃづる / タピる
お茶漬けが、好きだ。交響的晩酌の終楽章にはいつも君がいる。私にとってお茶漬けは、マーラーの三番の、六楽章のような存在だ。あたたかなニ長調の出汁が、すべてを鎮めてくれる。
私と同じような茶漬愛好家は江戸時代にもおり、「ちゃづる」なんて動詞まで生まれたらしい。
ほう、「ちゃづる」か。江戸よりももっと最近、似たような語感を聞いたことがある気ががする。
そう。君の名は――「タピる」。
その頃は私もちょうど若者だったが、タピオカなんて飲みませんよとしたり顔で、行列の横を素通りしていた。
君たちはどこでそれを買うのか。君たちは何者か。君たちはそれを持ってどこに行くのか。
ああ、少し歩いてみれば、またタピオカ屋だ。女子高生などが並んでいる。蝿のように集き、一杯のためにこんなに待って、馬鹿らしい。
それで、君たちはそれを買ってどうするのだ。真顔で写真でも撮って、偽りの思い出を作るのか?少しだけ飲んで捨てるのか?それとも、醜い顔でカップの底にへばりついた黒い粒を吸い上げるのか?通報される恐れを抱きながら、しばしの間お嬢様方の動静の観察を試みた。
どうせ学生の間だけの、刹那的な関係なのだろうと高を括っていたら、彼女らのなんとも仲睦まじいこと。写真映えよりも談笑の楽しげな姦しさが勝り、美しき姉妹のように、杯を近づけ合っている。さしずめタピオカ家の姉妹盃か。あれ、少し羨ましい。なんだか悔しい。ええい、腹でも下してしまえ。そんでもって婚期に悩まされろ。
さて、そんな私は今晩もひとり茶漬けを食す。
晩酌のアテに、鯛を甘口醤油に漬け込む。胡麻を散らしてみよう。管弦楽部の博多遠征のとき、連日のモツ鍋に疲弊してひとり立ち寄った、入り組んだ小路に佇むあの店の胡麻鯖を思い出しながら。
いくつかの漬物をポリポリと齧って、ひとしきり麦酒を堪能する。サッと拵えたつまみにも箸を伸ばして、二杯目を注ぐと同時に、行平鍋で湯を沸かす。出汁パックを入れてふつふつと居間に香りが広がったころ、ぐいと残りを飲み干して、シメの準備に取り掛かる。
ひとり、茶づる。弦楽の調べが、穏やかに胃をあたためる。私の、私による、私だけのための饗宴は大団円を迎える。