時代小説『ひなげしの雫』(肆)
第四回
いよいよ、と覚悟を決めて子嬰は玉座のある宮殿に向かった。すると項羽らしき人物と秦の皇帝の玉座にあろう事か女が座っているではないか。流石に激昂した子嬰は虞姫に向けて言い放った。
「そこの女。その玉座を何と心得るか!そこになおれ!斬り捨ててくれん!」
突然の怒号に虞姫も驚いて立とうとしたが、項羽が遮った。
「構わんぞ。そのまま治療を受けるのだ」
医官が虞姫の手当をしていたが、医官も項羽の威勢が恐ろしく、内心は玉座へ素性の知れぬ者を座らせている事を気にしながら治療を続けていた。子嬰の声を聞いて布を巻いていた手から、段の下へ転げ落ちた。
「何者だ?」
項羽は子嬰を睨めつけた。思わずたじろいだ子嬰は、これが項羽と直感で理解したが、
「我は秦王、子嬰だ。其方等は何故に玉座をほしいままにしているのだ?」
「これは、余の物である。よって、お前ごときにとやかくと言われる筋はない」
「すると、貴方は…」
「項羽だ」
「これは失礼致しました。私は子嬰…先だって楚に降りました、秦の王でございます」
「そうだろうな。俺だと気付いておきながらその豪胆は王にしか為せんものだ」
「恐れながら…そちらの女人は…」
「あぁ、俺の妹だ。そこで足を挫いたのでな…俺の玉座だ。妹を座らせて、悪いか?」
項羽の瞳の奥に鈍く暗い物が浮かんだ。殺気である。子嬰は覚悟をしていたものの、思わず平伏してしまった。
「いえ…御意に従います」
幸いにして虞姫はこの殺気を感じることができなかったのは、項羽の瞳を覗う事が出来なかったからであった。
医官はこのやり取りが終わると、急いで段下の布を取りに行き虞姫の治療の続きを行った。この医官なりにこのやり取りから誰に味方すべきなのか忖度したに違いない。医官は何も余計なことは口にはせず、
「しばらくは足を地に付かないようにして下さいませ。妹君様。どうぞお大事に」
と、慇懃丁寧に退出していった。
項羽は治療の最中は終始心配そうに窺っていたしそして、処置が終われば満足げにしていた。退出していく医官を目で追っていると子嬰の臣従の姿勢は解かずにいるのが目に写った。
「まだそこにおったか。今日は再会を慶びたい。下がれ」
と、追い出す様に手を振ると子嬰はようやく立ち上がりなんとか体裁を整え、退出していった。
虞姫は怪我の痛みもさることながら、この一連のやり取りに口を挟む余地の無いことは知ってはいたが、
(どうしよう…私のせいで…)
内心は気が気でなかったが、子嬰が出ていく事で動悸のような高鳴りは落ち着いていった。
そんな虞姫の心中を知ってか知らずか、項羽は顔を近づけて小さな声で囁いた。
「小苑、お前は今日から俺の妹になった。皆の前では大兄と呼ぶのだぞ…」
虞姫は小さく頷くと、項羽は満足した会心の笑みを虞姫に向けた。
丁度その時である。外から数名の武装した者達が入ってきた。
「項羽将軍…お早ですね。急に一人で行ってしまうので焦りましたが…ご無事な様子で何よりです」
「鐘離昧か。遅かったな」
「門兵から騅を引き取った時は何事かと思いましたよ…。ん?そちらの佳人は…。何故、玉座に?」
「おぅ!久し振りの咸陽に来て、生き別れの妹と再会したのだ!はしゃぎすぎて、足を挫いてしまったのでな。治療の為に座らせておった」
ワハハと、大きな声で笑うと鐘離昧も納得しながら笑っていた。
「それはそれは…感動の再会でしたね。あ〜…なるほど…妹君を探すのに皆に言うのを遠慮してお一人で行かれたんですね」
「まぁ、そういう訳だ」
二人の話が続く中、将兵が続々と到着していた。この宮殿にも入ってくる人数が多く、この痛む足では家に顔を出しに行って子期を安堵させてあげたい、と言う願いは叶えられそうになかった。
「あの…大兄…」
二人の話を遮るのを申し訳なさそうに、虞姫は細々と項羽に話し掛けた。
「どうした?小苑。痛むのか?」
「いえ…そうではありません。大勢の方々がいらっしゃるので、お暇をさせていただきたいと思いますが、やはりこの足では歩くのは難しいと思います。お恥ずかしながら、どなたかのお手をお貸し下さいますか?」
「なんだ。そのような事か。心配するな!俺が運んでやる」
そう言うと、項羽は再び玉座の虞姫を抱え上げ門の方向へ歩き出した。動作が機敏で虞姫は遠慮する暇も与えられなかったが、家まで運んでくれるのが他の誰かではなく項羽である事に安心を感じたので何も言えずに、その逞しい腕や胸の一時とは言え住人になる事を甘受する事にした。
「将軍。どちらへ?」
「鐘離昧。妹を家まで送る。すぐに戻るから、主だった者達と待っておれ」
「御意…」
そう言って鐘離昧は拝礼して項羽を見送った。
項羽は虞姫を抱きかかえながら歩いていく。項羽の眼前には、自らの将兵が続々と入ってきているが人の海は項羽が通ると割れていく。
(なんて…綺麗な光景…)
虞姫は絶句していた。それは、天下人である項羽の権力の威光を笠に着たものではなく、兵士達の動きの美しさのそのものに見惚れてしまったのだ。叔父の家にいた時はこれ程多くの人を見ることはなかったし、人が同じ意志を持って項羽を通らせ、傅かせているその同一の意志というものが虞姫には新鮮に見えた。
「どうした?小苑。そんなに目を輝かせて…」
項羽の腕の中で声をかけられた虞姫は潤んだ瞳で項羽を見上げた。
「こんなに沢山の人が…籍…いえ、大兄に道を開けて、頭を下げるのを見ると、壮観…と言うか、こんなに人は一つにもなれるんだな…って。凄い光景だなって…思いました」
あどけなさを残す虞姫の物の言い様に、項羽もつい目を細めて微笑んだ。
「そうか。俺にはいつも通りの事だが…」
そう言った項羽の顔は穏やかであった。普段は帷幕での精強さを顕にした表情しか知らない英布がすれ違い様に立礼していたが、首を傾げるほどであった。
「どちらへ向かわれるので?」
「おぅ、英布。なに、妹がな怪我をして歩けんので家まで送るところだ」
虞姫は腕の中にいながら挨拶した。そして、失礼を謝った。英布は「黥布」とも言われる。それは顔に入れ墨が施されているからである。「黥面の英布」がいつしか「黥布」と短縮された異名であった。故に、大概は怖がられるか話しかけられない。特に年若い女人には圧倒的に不人気であった。こうして項羽の妹とはいえ、若い女人と言葉を交わすのはいつ以来か…そんな事を考えながら項羽と虞姫を見送った。
やがて宮殿の外門を出ると、門の付近で少し狼狽える子期を見つけた虞姫は、項羽に家の者が迎えに来ていると伝えた。項羽はそれらしい所作の子期を目ざとく見つけると声を掛けた。
「お前が小苑の家の者か。…まだ年若い小僧では、運べまい。家まで案内せよ」
子期は初対面の項羽の威風に気圧されてはいたが、持ち前の人当たりの良さで項羽を不快にさせない程度の愛想で、案内を始めた。案内しながら時々振り向いては虞姫を案じていたので、項羽は少し二人の関係が気になった。
「なぁ、小苑。あの小僧はお前の何だ?」
虞姫は下働きの者と答えたかったが、歳も近いので一族の者だと言うことにした。今日あったばかりではあるが、虞姫を主人と思い今も心配して何度も振り返って見ている。なので、偽りとはいえ
少し身分を上げて言うことにした。
「子期と言います。私を姉のように慕ってくれていますが、遠縁の子で私と暮らすことになった唯一の肉親です」
「そうか!ならば、俺の弟同然だな!」
項羽は高らかに笑った。狼狽える子期へ、唇に人差し指を当て黙ってるようにと伝えると、子期は頷いた。
そうしているうちに、仮宅とも言える移って来たばかりの新居に着いた。項羽は割と立派な構えの邸宅に少し驚いていた。
「大兄、ここは引っ越して来たばかりなのです。まだ何も揃えてなくて…」
「そうなのか?だったら俺と暮せば良い」
「え?」
事も無げに項羽は、そう言い放った。その結論に至る色々な事情や問題や感情さえも置き去りに。虞姫はあっけに取られたが、輪をかけて子期は先程から驚きの連続なので混乱して、展開の速さについていけない風である。
「嫌なのか?」
恐る恐る尋ねて来る項羽は、武将達との会話で見せたような精悍さは影を潜め、何か幼子が両親に菓子や玩具をねだるような表情をするのでなんとなく可笑しかった。が、それを噛み殺して虞姫は答えた。
「いいえ、そんな事はございません。ただ、あまりに急なお話なので…驚いてしまいました。私のような民草の中の、ありふれた娘ですのに…」
項羽は答えを聞く刹那密かに強張らせた表情を緩めた。
「虞姫、玉座でも言ったが今日から俺の妹だ。民草の中から見つけた俺の妹だ。それは、他の者では役不足で虞姫でなければ俺は求めん。だから、明日からでも俺と暮すのだ」
虞姫の中では事の成り行きとはいえ、当初の目標は達成出来るので、当然ながら嫌は無い。項羽とは自然に近づいて、作為なく演技でもなく、ただただ楽しかった。知らないとは言え、寧ろそれが為に得られた成果であった。
しかし、それを虞姫は戒めた。陳平との約束は守ろう、と。常に陳平との約束は頭のどこかに置いておかなければ、叔父の家から連れ出して貰えた恩義を果たす事は出来ないかもしれない。楽しさや嬉しさに流されすぎてはいけない、と。
その事を考えながら、虞姫は返事しようと思った。我身を引き締めたい時や流されまいとする時は、彼女自身の胸の中に鈴の音を鳴らす事にしよう。
「りん…」
うつむき加減の虞姫はこの音を合図に、少女の無邪気さを封じ込めた。本心は演技すら必要の無いこととは言え、流されてはいけない。胸の中の鈴を、流されそうになったら鳴らすんだ。そう言い聞かせながら。
再び顔を項羽に向けた時、ようやく始まったのだった。
「嬉しい…大兄、本当の兄だと思ってしまいます」
わざとらしさも媚びた印象の無い、しかし項羽を虜にするであろう美しい笑顔であった。まだ恋心を知らない子期ですら、心を奪われそうになった程である。
その笑顔を向けられた項羽は、歴戦の勇者である。自他共に認める程女性を嫌ってもいたし、どこか少年のままの様な純粋な心を残しているようでもあった。
その項羽が、美しさにたじろいでいた。
(これは…どうしたことか…)
普段は信じてもいない、方術や妖しいまじないにかかったように、虞姫を見つめたまま動けなくなった。ほんの一瞬であったが、その体の遅延は戦場では命取りになる。首筋に冷たく、しかし、それ程の不快感でもない冷や汗が項羽の体を自由にした。
「どうかなさいましたか?」
虞姫に話しかけられて、呪縛の解けた項羽は答えた。
「あ、いや…なんでもない。そうか…嬉しいか」
「はい!」
呪縛の解けた項羽と虞姫は、手短ではあったがこれからの事の要点だけを話し合うと、明日の朝に迎えに来ると言い残して項羽は去っていった。
項羽が去ってゆく後ろ姿を、子期と見送っていると、
「虞姫様。あの方は…」
「項羽将軍よ」
「そうでしたか。…やっぱり…。そうではないかとは思っていましたが、まさかと言う考えもあったので、どう対応すればよいかと…でもこれで少し、納得できました」
「察しが良いのね。…でも、ごめんね。子期…。陳平様の段取りが狂ってしまったね」
あどけない少年とばかり思っていたが、この時の子期は神妙な面持ちで小さくなっていく項羽の、名残惜しそうに何度も振り返る姿を見つめていたのに気付いて、虞姫はこの出会ったばかりの少年は何を考えているのだろうかと、気になった。
これまで門前で、まるで旧知の仲のように項羽を含めた三人で話していた。昔馴染みと話す様な気軽さ
で話していたが、何ら畏まっていたのではなかった。それが、子期には今更のごとく波の様に事実が押し寄せていたのだった。
(まさか、僕まであの項羽将軍とお話できるなんて…)
夢の様な一時であった。
(続く)