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ブルーは欺く

📘愛欺くブルー

鬱陶しい快晴が広がっている空を見上げながら、毒づいた。どうせこんな綺麗な紺碧の空も、ありふれた漆黒の色に染め上げられるのだと。加減を知らない今年の猛暑は、底抜けに明るいだけのJ-POPがよく似合いそうだと思った。

今日はデートの予定だったにもかかわらず、昨夜から恋人と連絡がつかない。昨日は彼女と僕のバイトの時間帯が丁度ズレていて、彼女の終業時刻に入れ替わるように僕は始業することになった。多分この時点で、僕は彼女に欺かれていた。嫌な予感は既にあった。ただ、彼女を信じることによって、僕は自分を信じようとした。まぁその期待も、後々は裏切られることになるのだけれど。

デート前日、僕は5時間ほどのバイトを終え、携帯を開いた。
返信があるものだと思っていた。
だが、そこには既読のついていない僕の言葉だけがあった。
独り言のように、虚しさだけが残った。

数週間ぶりに独りきりの夜が訪れて、僕は安堵した半面、何か不吉な予感を抱いた。積み上げたブロックが崩れる前の、嫌な軋み音が耳の奥で聞こえた。

そんな中、イーロンマスクが余計なことをした。その夜、Twitterが見れなくなった。

「APIの呼び出し回数が上限を超えました」

というような表示が出ていて、それが一層僕の不安を倍増させた。
自由を象徴していた鳥は、もうそこにいなかった。
鳴かぬなら殺してしまえ、という言葉が脳裏を過った。

絵の具をいたずらに混ぜ合わせたような汚い夜が明け、デート当日を迎えた。その朝の空は綺麗な紺碧に染まっていて、俺も染め上げてほしいと思った。彼女に電話を再び掛ける。やはり昨晩から繋がらない。幾度となく僕は電話を掛けなおしたが、まるでショッピングモールで母親と逸れた少年が、見当違いの場所で泣きながら母親を呼んでいる状況に似た虚しさを感じてやめた。

その後、何気なく開いたTwitterでは制限が解除されていて、僕は彼女のアカウントを見た。そして、そのたったワンクリックで自分の置かれている状況を唐突に突き付けられることになった。

「@●◇■△はあなたのことをブロックしました。」

その文面に理解が追い付かず、大いに困惑した。スマホを持つ手が痙攣したように震え出して、もう無理だと思った。念の為、インスタを開いて、電話を掛けた。何回掛けても数秒で拒否され、僕は苦しい現実に飲み込まれそうになった。床に黒い渦が広がって、僕を捕食しようとしてくる。
壊されてしまうと思った。
自分のこころが壊されてしまう前に、何かを壊さなければいけないと思った。

数秒後、僕は手元にあったスマホを目の前の壁に向かって投げつけていた。カーテンが重く閉ざされた光の届かない部屋で、投げたスマホを手探りで探した。スマホはカバーに覆われたフロント部分しか当たっていなくて、全く壊れていなかった。だから、もう二度投げて、スマホは完全に壊れた。僕は恋人だった女の命を取り上げるのを我慢して、3年ほど連れ添ったスマホの命を奪った。スマホが壊れたうえに、部屋のクローゼットには穴が開いて、天井には擦れた跡や窪みが残った。

派手に割ったスマホ

部屋に母親が駆け込んできて、何があったのかと聞いてきた。
僕はただ一言、「騙されていた」と言った。
母親は僕の心理状態に気を遣って、慰めの言葉を掛けながら仕事に行った。後から話を聞いたら、僕はこの瞬間、自殺でもしそうな顔を浮かべていたようで、仕事を休もうか迷ったらしい。迷惑な女の罠に引っ掛かったせいで、身近にいる大切な人に迷惑をかけてしまった。
お母さん、心配かけてごめん。

映画を一人で観に行くことにした。
そもそも、この日は映画を観に行く予定だった。
是枝裕和監督の最新作『怪物』を、観に行く予定だったのだ。

9時過ぎに映画館に到着して、とりあえず何か観たいと思った。
『怪物』は昼過ぎから上映の予定だったので、まだまだ時間があった。予定よりも少し家を出るのが遅くなってしまったため、何本かの作品は上映が始まっていたが、そんなのはどうでもよかった。上映は始まっていても、僕はただ暗闇の中で泣きたいだけだったのだ。僕は数年ぶりに、名探偵コナンの新作でも観ようと思った。

売店で派手にドリンクやアイスクリームを買って、中に入った。
開始10分ちょいくらいだったので、丁度映画のタイトルが表示されるくらいの頃合いだった。

途中、コナンが灰原哀と眼鏡を交換する場面があり、そこでのコナンのキザすぎる台詞に不覚にも泣いてしまった。まさか僕が、コナンの映画で涙を流す日が来ようとは思ってもみなかった。それなりに満足して、映画館を一度出た。

日曜日のお昼時、ショッピングモールのフードコートや飲食店はどこも混雑していた。スマホも壊れてしまってどうしようもない僕は、とてもその列に並ぶ気にはなれず、映画館に再び踵を返した。

結局、『怪物』の開場時間まで本を読みながら待ち、開場時間になったら売店でフランクフルトとポップコーンとドリンクを調達して、中に入った。映画館の匂いや、カーペットの感触や、フカフカな座席が大好きで、少し癒された。朝の出来事から少し目を背けることができて、本当に有難かった。

是枝監督の『怪物』は、とても素晴らしかった。映画冒頭で描かれる印象的な場面が本編の中で何度も出てくるのだが、これが登場人物三者による別々の目線であるということに気付くのに時間はそれほど掛からなかった。普段から、というほどではないがそれなりに僕は映画を見てきていたので、これが『怪物』の正体を明かすための2時間20分だとすぐに気づいた。

僕が是枝監督の映画を観る度に思うのは、包丁のように現実世界や社会問題を斬る鋭さと、毛布のように暖かいものを併せ持っているということだ。また『怪物』では、最初の方は不可解だった場面も、当人の目線で見てみると大いに意味がある行動だったりして、印象的だった。

『怪物』のエンドロールでは、坂本龍一さんの音楽が流れ、心が綺麗に洗われていく気がした。映画館が真っ暗闇に包まれるまで、僕は待った。ボロボロ涙を流して、放心状態ではあったが、それが妙に心地よかった。映画で理解出来た部分は、恐らくは是枝監督の脳内の半分にも満たない程で、それでも素晴らしいものを観たという確信だけはあった。だから、映画館を出てすぐの所にある書店でノベライズを買い、ショッピングモールを後にした。

家に帰り、再び壊れたスマホを手に取る。スマホの画面に僕が残した傷は、独特な模様のようになっていた。縦1センチしかない画面で、親友に電話を掛けた。今日会えるなら会わせてほしい、話をさせてほしい、一緒に遊んでほしい、いや、ただ顔を見させてほしい、それだけでいい、と。
親友は言った。
『もちろんいいよ。何時が良い?』

午後7時、想い出の温泉の前で集合した。嫌な気持ちは何もかも、水に流してしまおうと思ったのだ。久々に会った親友は何も変わっていなくて、俺だけが傷心だった。だけど、本当に心が救われた。夜空からは月が消えていて、僕はまた月を探して歩いていかなければいけないのかと思った。

『訳わかんねえよ、そいつ』
親友はそんなことを言って、上手に怒れない僕に代わって腹を立ててくれた。それからは、すごく真面目に恋愛について語ったり、下世話な話で盛り上がったり、お互いの近況報告をした。久々にサウナにも入って、ちょっと怖くなるくらい整った。

浴場を出て、その温泉施設の中にある、以前僕が働いていたレストランにも顔を出した。久々に店長や従業員に挨拶をしたら、とても喜んでもらえて嬉しかった。

その夜、憎しみの中にも微かに残る、楽しかったかつての想い出を振り返った。そして、見えない月に向かって、僕がずっと隠していた秘密を明かした。

水族館でデートをした時、アザラシのショーを見ながら身を寄せてきた彼女に、思いがけず色気を感じてしまって、興奮を必死に抑えていたこと。谷間を覗き見て、エロいなと思ったこと。

カラオケで彼女が一青窈の『ハナミズキ』を歌い出して、昭和臭いとよく言われる僕ですら、「古すぎだろ」とツッコミたくなって笑いそうになったこと。

とある夜、寝落ち通話をしながら、深夜テンションや寝ぼけているふりをして、「めちゃくちゃにしたい」と言ったら、本音漏れちゃってるよと笑われたこと。

大学の休講になった授業の時間、屋上テラスや近くの公園で何度もキスをして、抱き合ったこと。

しかし僕は、いつか、こんな日が来るのだろうと思っていた。

彼女に、既に男がいることは知っていた。

「創作のためだけに僕は、彼女と付き合ったんです。彼女は、僕の創作意欲の燃料にもなってくれたし、何より浮気する女という生き物に、どうしようもなく興味が湧いてしまってね。だってそんなの、恰好のネタじゃないですか。次に出す連載小説のテーマはね、当然ながら『浮気』ですよ」

月は、何とも言わなかった。
ただただ、死んだように静かな夜が流れていた。

僕が元カレの数を訊ねたら、彼女はいつもお茶を濁した。
どこにでも居そうな男の特徴と、当たり障りのないフォローをしていた。全ては、“元”にすらなっていない“今”カレが僕の他にいるからに他ならなかった。

彼女と寝落ち通話をした最後の夜、僕はとある宣言をした。
「俺は、今年の夏に出す小説を、“浮気”とか“不倫”ってテーマで書く。そういうのやる奴の気持ちが俺は全然分かんないんだけど、浮気とか不倫って世間的に見たらダメなことやん?だから、その気持ちになってみたくて」
この宣言は当然、今後達成されることになるのだが、ここには大きな裏メッセージが隠されている。

(浮気とか不倫ってダメなことだから、俺はお前にそれをやめてほしいと思ってるんだけども、きっとやめないよね? 色んな男に愛されてる状態が気持ちいいんだよね? だからさ、それをテーマに俺は小説を書くんだよ。お前って人間をテーマにしてね)

僕はきっと、これら一連の警告的言動によって彼女は罪悪感を負い、突然連絡手段を切る暴挙に出たのだと考えている。振り返ったら、本当に最低な女だった。だけど、それと同じくらい僕も最低だった創作のためだけに、女性に接近し、交際に発展させ、その経験を利用しようとしているのだから。ただ、今回抱いた憎しみに免じて、僕はこの経験を基に小説を書くことを自分に赦す。思えば彼女も、自身に免罪符を貼っていた。

お互いの予定が合わず、デートを見送った週。
『ごめんね』と言ったあと彼女は、『私って、許可取られると断れないんだよね。だから、「土曜日は入れる?」って聞かれて、入れますって言っちゃった』と付け加えた。
このやり取りをした数週間後、僕はカラオケの中で告白をした。

「俺らって付き合ったら楽しいんじゃね?」
これが、僕の口説き文句だ。普通だったら、「好きです。もし良ければ、俺と付き合ってください」と告白するところを、あえてこうした。何故ならば、「好き」などという言葉を使って告白してしまおうものなら、自分に「僕はこの人のことを心から好いている。だから離れたくないし、捨てたくない」というように暗示を掛けてしまうことになる。だけど僕は、彼女のことを好きだなどとは一言も言っていない。つまり、いつでも僕はダメージを負わずに彼女を捨てる、或いは捨てられることができた

また、この言葉を振り返ってみると、隠された裏メッセージが浮かび上がる。「俺らって付き合える?」という問い掛けだ。許可を取られると断れない彼女は、許可の意味合いを持っていたこの質問にも当然のように頷く。交渉が成立する。だけど、遡れば彼女は、「私はイエスマンだから、自分の意志にそぐわず許可を取られてしまうと了承してしまう」という意味合いのことを言っている。だから彼女は、このやり取りを『押し切られた形なので、私は悪くない。本当は付き合いたいなど思っていなかった」と自分を正当化することができた。

しかし、おかしなことに僕は、彼女を本気で好きになってしまった
“略奪愛”という言葉が頭に浮かんで、本気で彼女を惚れさせれば、元からいた恋人から彼女を奪うことができるのではないかと考えた。彼女とホテルに行きたいと思った。旅行に行こうなどという話も、電話で少しだけしていた。どうせ捨てられるんなら、最後にセックスくらいしたかった。

僕はどう足掻いても、彼女の愛人に過ぎなかった。僕は僕で別に愛人を作って、その人と真剣に恋愛をしたくなったから別れてくれと彼女に言って、同じ思いをさせてから捨てる算段だったのに、先に捨てられたのは僕の方だった。その考えが見透かされていたのかは分からない。多分だけど、上手く隠せていたと思う。そうすると、彼女も彼女で自分が恋人の存在を上手く隠せていると、途中までは思っていたのかもしれない。しかし、残念。僕は付き合う前からそのことを知っていたし、そんなのは重々承知で付き合っていたわけだよ。

だけどね、それでも最後は辛かったし、悲しかったし、ムカついた。
最後が連絡手段を全部切って終わりだなんて、すごい神経してるね。仮にも僕はね、君との日々を他人に恋人との日々として話していたわけだよ。仮初めでも君は、僕の彼女だったわけだよ。でも君は僕のことを容赦なく切り捨てて、別の垢ではのうのうと本物の恋人の誕生日を呟いていたね。
多分だけど、僕に電話で話していたような身内の問題も大概は作り話で、心配してもらいたかっただけなんだよね。悲劇のヒロインを演じていただけなんだよね。だけどさ、心配いらないよ。お前の神経は笑っちゃうほど図太い。遊具にある大木の丸太くらい図太い。なんだかんだ、僕よりも長生きすると思うよ。リスカだって演出だろ?

お前のせいで、2万円で売れたはずのスマホを壊したよ。これに関しては、俺の悪い癖のせいでもあるのだけれど。
部屋に開けた穴を覗き込んでいたら、光の糸が垂れてきたよ。
もちろんだけどほかの女性によるもので、お前の記憶なんてどんどん忘れていくよ。俺は絶対にお前より幸せになるし、お前よりも長生きするよ。お前の病んでた時代の話は、何だか厨二病くさくて面白かった。あれが作り話じゃなくて実話だったなら、少しは申し訳ないと思う。だけど、悪いが死ぬ時にお前は孤独だと思うから精々頑張るんだな。俺はお前が苦しんでるときにも何かしら楽しいことをしてるだろうし、苦しんでたって死んだってどうでもいい。一緒にいたことすら恥ずかしいから元カノカウントにも入れないけれど、お前は俺を手放したことを今に後悔すると思うよ。

長くなったから、そろそろ終わりにする。
悪いけど、お前と過ごした日々を創作に使わせてもらう。お前をテーマにして、浮気や不倫を描くよ。絶対に面白い作品が出来ると思う。だから、今まで本当にありがとう。
あと、手紙は内容が薄っぺらかったから捨てた。せっかく書いてくれたのにごめんな。
俺は絶対にお前以外の可愛い女性と幸せになります。お前は今が幸せなんだろうけど、いずれは不幸になると思います。人は、時として必要な嘘をつきながら大人になっていくけれど、お前はロクな人間にもなれないと思います。大人にはなったとしても、中身は生ゴミと変わらないと思います。
最初は切ない秘密がありそうな雰囲気とか、お前が纏ってる不幸オーラとか、アンニュイな瞳に惹かれたものですが、俺は今になって気が付きました。お前は綺麗でもなんでもないし、ガキの遊ぶ玩具みたいな安っぽい秘密しか抱えてないし、魅力的に感じたのは『嘘の厚化粧』のせいだったよ。お前は狡猾な手を使っている限り、心から愛されることはない。僕はここに来てやっと分かったんだよ、怪物はお前だったってね。

【追伸】
何度もインスタで電話を切られた後、俺はお前に「ちゃんと言葉で説明してくれよ」と送ったよね。それに対して数日後、お前はこんな返信をしてきた。

『なにも説明することなんてないよ』

『今度出すnote見てくれたら分かると思う』

お前さ、最後が完璧にキモイな。
説明することがないわけ無くないか? お前はこの先も欲望のままに生きて、不要になったら同じように説明もせず逃げるのか? 俺は衝撃を受けたよ。多重人格者か、お前は。
それと、“今度出すnote見てくれたら”って、なんで俺がお前の拙い記事を読むって前提で話してるわけ? 脳みそ湧いてんのか。とりあえず100冊読書して基礎的な語彙力とか文章力を身につけてから出直してこいよ。俺はお前みたいなペーペーとは違うんだよ。評価されたかったらそれなりに努力しろよ。とにかく気持ち悪いから、二度と近寄ってくんな。現実なんか見て見ぬふりして、夢の中で遊んでりゃいいよ。

📘夜惑い

演劇部のオーディションで、やりたかった役柄を勝ち取り、つい子供みたいにはしゃいでしまった。そしてこの後、最近終わったばかりである新入生歓迎公演の打ち上げが開かれる。しかし、訳あってそこまでの道のりは壮絶なものになる。その体験について今から書いていくわけだが、この時の俺はまだ、そんな経験をすることを微塵も知らない。

小田急に乗って、みんなで新宿まで向かう。今夜、打ち上げが開かれる場所は、歌舞伎町の某ビルにある居酒屋だ。俺は通学定期券を代々木上原駅から大学の最寄り駅まで持っていたので、代々木上原から新宿までの差額分を乗り越し精算で払うことにした。

新宿に到着し、先輩を筆頭に列を成す。
先輩数人が改札を抜けたのを確認し、俺は駅員が真横にいる改札まで駆けた。乗り越し精算をして、改札を急いで出る。

すると、どうしたことか。先輩方や同期がいない。

俺は乗り越し精算をしている数十秒の間に、誰からも気付かれることなく置いていかれていた。俺は誕生日前日、つまり十八歳最後の日に、あろうことか迷子になっていた。この歳にもなって流石に泣くことはないが、置かれた状況が哀れすぎて、流石に頭は抱えた。

ひとまず新宿駅を出て、見知った顔の集団を捜す。しかし、人混みが凄すぎて、そんなものは判別がつかない。
そもそも右方面に行ったのか、左方面に行ったのかも分からず、途方に暮れた。ただ、俺はお店の名前を知っていたので、自力で向かうことにした。
マップアプリを開き、店の名前を打ち込む。
どうやら、店は右方面にあるようだった。

右方面にずんずん、人混みを掻き分けながら進んでいく。しかし、どれだけ競歩のような歩幅で歩いても、改札までは一緒だったはずの集団の姿が全く見えない。狐につままれたような気分で、都心の雑踏の中を歩いた。

「遅れます」とでも一報入れようかなと思い、LINEを開いてみたら、ゾッとするほど無数の不在着信が溜まっていた。俺だけが彼らを捜しているつもりだったが、それ以上に探されているのだと気付いた。するとまた、着信が来た。今なら出れる。「応答」ボタンを押し、電話を取った。

「はい」
「・・・」

その電話は、演劇部の特に俺が信頼している友人からのものだった。しかし、俺が何を言っても、返答がない。静寂が流れている。そこで俺は気付いた。ここは人が多すぎて、電波が非常に悪い。場所を移動しようと思った。その断りも入れて電話を切ったが、恐らくはそれすらも聞こえていなかったのだろう。数秒すると、また電話が掛かってきた。

二度目の電話は繋がったものの、電波がまだ悪いのか友人の声が途切れ途切れに飛んでくる。しかし、彼が俺のことを捜してくれているということだけは聞き取れた。俺はここに来て初めて、彼の声に泣きそうになった。こんな俺を捜してくれる人がいた、ということに。良い友人を持ったと思った。

それから何度も電話を繋ぎ直し、やっと電波が安定すると、同じ場所で待ち合わせて二人で目的地に行くことにした。しかし、その待ち合わせにも苦戦した。お互いがどこにいるのかが分からない。

夜の新宿は、迷宮だった。
俺は、彼らと異なった世界線に迷い込んだのではないかと疑った。

駅に一度引き返してくれと言われ、元来た道を戻る。売れないアイドルが、汚ぇじじいに愛想を振り撒いていた。キンキンした歌声が頭に響いて、鬱陶しい。電話の声が掻き消されてゆく。

駅に到着し、友人の姿を捜す。
しかし、周辺にいるはずの友人の姿は見えない。
電話で、俺の近くにある目印になりそうなものや、景色を詳細に伝える。しかし、相手はしっくり来ていなさそうだった。予約された2時間の打ち上げはとっくに始まっていて、開始から30分以上が経過していた。

結局、駅での待ち合わせは難しそうだったので、近くにあるヨドバシカメラのあたりで待ち合わせることになった。ひと口に「ヨドバシカメラの前」と言っても、数を挙げたらキリがないくらいだから困った。都会では、待ち合わせにすら苦労するのかと、上京したての若者のようなことを思った。

最終的に、ヨドバシカメラの『マルチメディア館』の前で集合することが決まったが、それでもまだ、俺は一人だった。近くには幸せそうなカップルや、フラついたサラリーマンが歩いている。バカみたいな数のガチャガチャがズラっと並んでいて、なんだかおもちゃコーナーへリスクを冒して遊びに行って、案の定親を見失った子供みたいな気分になった。

夜風が吹いていて、付近にあるマクドナルドの香りが運ばれてきて腹が減った。キャバクラ帰りなのか、惜しそうに財布の中を見つめる弱そうな男に同情した。ドリルのような音を響かせながら走るトラックに、思わず耳を塞いだ。俺はただひたすらに、友人から見つけてもらうのを待っていた。

どれだけ待ったかは分からない。
ただ、一向に友人と落ち合えないこの状況がもどかしくなった俺は、周囲の風景を写真に収めて送信した。風も月も街路樹も皆、憐れな俺の姿から目を逸らした。俺は幼い頃から、迷子になりやすい子供だった。冒険心や好奇心といったものが、他人よりも強かったのだと思う。予め着地点が用意されているゲームや、ちゃちなカードやメダルの類には興味が湧かなかった。友達がなかなか出来なかった。出来ても、本音が言えるほど心を開くことができなかった。俺はいつも、独りだった。集団の輪の中にいた時も、異性と鬼ごっこをしていた時でさえも、孤独を感じていた。俺はずっと、独りだ。

思えば、乗り越し精算をする時、友人にひとこと言って待ってもらっていれば、こんなことにはならなかった。皆から俺は心配されていた。心配をさせてしまって申し訳ないと、頭を深々と下げて謝ろうと思った。存在が迷惑なのは、ガキの頃から変わっていないようだった。在りし日の記憶がいくつも呼び起こされて、俺は猛烈に家に帰りたくなった。妹の財布から五百円玉を盗んだ事件は、結局どうなったんだっけ。贖罪を俺は済ませた? 家出をしたあの日は、どこへ向かおうとしたんだっけ。学校を無断でサボったあの日は。俺の邪魔をしてきた奴を、やっつけようとしたあの日は。一体、どうしたんだっけ……。

そんなことを考えていたら、目の前に友人がいた。

『良かった。やっと会えた』

日向のように温かい言葉だった。何してたんだよ迷惑かけやがって、と言われてもおかしくない程だったのに。俺は、ひたすらに謝った。タオルを首から垂らしている友人は、きっとこの先も沢山の人を救うのだろうと思った。時には、ただ深淵に堕ちていくだけの悲劇でさえも照明の加減で喜劇に塗り替えてしまったりするのだろう。俺が自殺を図って、人生という舞台から飛び降りようとしたら、その一歩手前で命綱を着けていてくれたりするのだろう。

友人から聞いた話によると、俺は乗り越し精算をしていた間に置いていかれ、皆が利用した左方面から店に向かうルートとは逆へとずんずん進んだため、彼らの姿を見つけることができなかったようだ。にしても、俺は先輩や同僚から心配をしてもらえる程度の人間ではあったのかと、少し安心した。そんな話をずっとしていたら、『もう済んだことだし、楽しいこと考えよう』と彼は言ってくれた。どこまでも優しくて、俺は泣きそうになるのを微笑みで誤魔化すしかなかった。

2時間プランだったはずの打ち上げは、俺と友人だけが1時間しか食べられない結果となった。しかし、それでも俺は充分だった。彼がいなければ俺はここにいたかも分からないし、そもそも演劇部に入っていたかすらも分からない。だから、彼にはあらゆる面で感謝している。決して長くはなかったが、十八歳最後の夜は、賑やかにとても楽しく過ごせた。

それから数日後、用事ができて後楽園に足を向ける機会があった。橙色の街灯に沿って歩いていると、信号に足を止められた。何気なく夜空を見上げたら、視界の隅に宇宙船のようなものが映った。きちんと見つめてみると、それが宇宙人が乗船している乗り物などではなく、建物の一部なのだと気付いた。イヤホンでいつものプレイリストを聴いていたら、タイミング良く、キリンジの『エイリアンズ』が流れてきた。ふと俺は、綺麗なアコギの音色を聴きながら思った。もしも宇宙人、あるいは異星人の類が地球に不時着した時、ここは迷宮なのだろうかと。地球人の俺ですらも、迷う場所があるのだから、宇宙人や異星人は相当に苦労するのではないかと。ただ、俺は自分がエイリアンだとしたら案外悪くないなと思う。自分には、人間の暮らしというものが到底想像できない。だから、今まで誰とも気が合わなかったのだと考えることにした。俺は頭上にある円盤に、声を掛けた。

「もうそろそろ、元の惑星に還らせて下さい」

しかし、円盤は返事をするどころか、ビックリするほど静かだった。当然である。これは、文京シビックセンターの展望デッキでしかないのだから。ただ俺は尚も、誰かに問い掛ける。俺はまだ、月の裏を夢見ていても良いですか?

📘金魚と少女

色とりどりの提灯が夜空の下にぶら下がっていて、左右に騒々しい色合いの屋台がずらりと並んでいた。それは日常の光景とは限りなくかけ離れた、幻のような景色。花火大会の夜だった。

私の目の前では、カップルと思しき男女がキスをし始めたりするが、そんなものは全く目に入らなかった。私の視線は、とある一点に吸い寄せられていたのだ。

色とりどりの布切れを繋ぎ合わせたのであろう、浴衣のようではあるが確実に違うもの。貧相な暮らしを隠しきれていない絹衣に身を包んでいる少女は、金魚すくいの屋台の、水槽を見つめながら悲しい目をしていた。

ゾッとするくらい、光の宿っていない目だった。
金魚すくいの屋台のお爺さんは、何も言わずに新しいポイを少女に渡した。

少女はやはり、新しいポイをもってしても、金魚を捕まえることができなかった。金魚も少女が可哀想になったのか、水槽の端の方に群れを成して、少女とその遥か上に出ている満月を見上げていた。

金魚屋のお爺さんは、自ら金魚を三匹ほど捕まえて、少女に手渡した。
少女は、呪文でも呟くような調子で「ありがとう」と言った。
お爺さんはよく聞き取れなかったが、『幸せになるんだよ』とでも言っていたように見えた。背後から大きな音が聞こえて、思わず振り向いた。

大きな花火が、夜の空に咲いていた。

それから、数年が経った。
私は今年、花火大会を見に行く予定は決まっていないが、近所にある神社の狛犬は破壊されていたし、例の金魚屋のお爺さんは店を畳んでしまった。

店を畳んだお爺さんは、死んだ魚のような目をして、高架下で眠っていた。段ボールで作った家に引きこもり、卵が腐ったような体臭を漂わせながら、ゴミのような扱いを受けていた。

とある夜、火種の残っている不始末の煙草が、お爺さんの家のすぐ近くに捨てられていて、火が燃え移ったことがあった。お爺さんは顔にたっぷり蓄えられていた髭が焦げた挙句、ボヤ騒ぎで駆け付けた警察に退去命令を出された。かつて少女に優しさを振りまいていたお爺さんは、この日、世界のどこにも居場所が無くなった。

その街には、大きな川が流れていた。
お爺さんはその上水に向けて歩き出し、やがて川が見えてくると、身体に重りを括り付け始めた。私はその様子を見て、お爺さんが死を選ぶのだと分かった。

しかし、その水面には既にプカプカ浮いている物体がある。それはよく見ると、あの夏の夜にお爺さんから金魚を貰った少女の水死体だった。
水の滴る少女はひたすらに美しくて、私はその金魚にも似た艶やかな身体を暫し見つめていた。

少女のはだけたシャツの隙間から覗く素肌には、金魚が泳いでいた。周辺の中学校に通っているのであろう男子学生2人組が、川沿いの土手を歩いてきた。手に握られた棒アイスは既に溶け始めていて、ベタベタした雫が彼らの腕を伝っていく。彼らは少女の水死体を光る水面に見つけるなり、足を止めた。

『なんかめっちゃエロくね』

男子学生のうち一人が、茶化すように言った。
彼らは何かを企んでいるのかニヤニヤした顔で囁き合い、やがて川に足を踏み入れていった。彼らは少女の死体に手をかけ、はだけたシャツを全て脱がそうとした。私はそれを見るなり、殺意が湧き上がった。拳を大きく振り上げ、彼らを追い払った。しかし、その瞬間眩暈のようなものに私は襲われ、何者かの記憶が脳内で再生された。恐らくは、少女の生前の記憶である。

少女は、勉強があまり出来なかった。テストの結果が振るわず、赤だらけの解答用紙を見せるたびに、父親に暴力を振るわれていた。ある時は、紫煙を燻らせた煙草を押し付けられ、刺青のようにいつまでもその跡が残った。少女は自分の存在に嫌気が差し、自殺を考えたのだろう。リビングのテーブルの上に置かれた父親の睡眠薬を大量摂取し、川に飛び込んだ。金魚は赤いのだけではなく、青や紫のやつも居た。

お爺さんは、自殺を踏みとどまったようだった。急に我に返ったように、身体に括り付けていた重りを外し、青草生い茂る川辺を駆けずり回り、浮き具のようなものを必死に搔き集め始めた。何処からか涼しげな風鈴の音が聞こえてきて、入道雲は背を伸ばしていた。そんな有り触れた夏の景色が琴線に触れて、なぜか少しだけ涙が出た。再び視線を水面に視線を戻すと、少女の死体は見えなくなっている。川底に沈んでしまったのだろう。まさか“夏の幻だった”なんてことはないはずだ。お爺さんは膝から崩れ落ち、やがて泣き出した。

それから少しして、川沿いの土手を自転車で巡回中の警官を見つけ、川底に少女の死体が沈んでしまったと伝えた。順を追って説明すると、警官はその場で応援要請を出した。パトカーが何台か到着する頃には、夕焼けが燃えていた。警官たちが、川に足を踏み入れていく。しかし、この時妙なことが起きていた。水中から壊れたモーターの音が聞こえてきたのである。

結局、何時間捜索をしても、少女の死体は発見されなかった。私とお爺さんは事情聴取を受けたが、「少女は確かに居たんだ」としか言うことができず、何の力にもなれなかった。

その夜、布団に沈み込んでいく感覚を普段以上に感じ、疲れているのかなと思った。しかし、意識が朦朧としてくると、視界を幾度となく影が行き交い、揺らめく陽光が遠くに見えた。海底にいるのだと分かった。この海は、当然あの川にも続いている。視界がどこまでも青くて、ずっとここに居たいとすら思ってしまう。

自分よりもずっと深い場所から、少女は浮き上がってきた。金色の鰭のようなものを身体から生やしていて、その綺麗さに息を呑んだ。瞬間、私は身体を痙攣させて、海の底を大きく波立たせた。

夏の、蒸し暑い朝だった。
磯の匂いが臭くて、思わず鼻を摘んだ。
私は顔を顰めながら着替えをして、ふと思う。
「金魚屋のお爺さん」って、「少女」って誰だっけ。多分何もかも、最初から存在していなかった。私はいつも誰かに弄ばれているだけで、存在など無い「世間」の恐ろしさを教えられたりしてきた。そんなものに怯えているから、いつまでも幸せを掴めないのだと思った。

洗顔をしようと思い、洗面所の鏡の前に立つ。
鏡に映った私は、金魚屋のお爺さんだった。衝撃のあまり咳込んだら、血痰が出た。
後ろに気配を感じて振り返ると、死体がいくつもあって、ブルーシートの上に鮮血が流れていた。私はそれらをいつものように給水ポンプで回収し、金魚を象った型に流し込んだ。死体は、私のことを邪魔する人間のもので、性別や年齢は様々だった。血が固まってきたら、そこにモーターを埋め込んで、最後に金粉を一振りする。これで、金魚の完成。去年も一昨年も、それより前も、子供は嬉々としてこれを持ち帰った。残酷だけど、世界はそうやって回っている。夏はこうして、夢見る子供や恋人たちを欺きながら過ぎてゆく。

◇◆

今年の夏も、花火大会が催されるらしい。しかし、そこに昔のような歓声や笑顔は無い。厳粛な弔いの行事であるからだ。二十一世紀末、日本政府はアンドロイドに人権を与える法案を可決した。その結果、上流国民が自分の手を汚すことなく誰かの生命を奪えるようになった。それを良く思わない一般市民が戦争を起こし、沢山の関係ない命が犠牲になった。そもそも、アンドロイドは人間にも動物にも魚にも擬態することができたため、判別がつかなくなっていた。結果、日本の人口は前年と比べて、半数を割った。その弔いとして始まるのが、この花火大会だ。ただ、少しでも笑顔を浮かべたら防衛軍に殺される。

私は花火を見ながら、涙を流していた。
しかし、何かおかしい気がする。その雫は涙というには黄色く、少し臭い気がした。頭が異常なほど熱くなり、倒れそうになる。すると、脳内で警告音が響いた。

『オイル漏レデス。担当者ハ今スグ、ヘッドノ蓋ヲ開ケ、内部クリーニングヲ施シテクダサイ。マタ、モーター交換期限モ迫ッテキテイマス。発注ヲ掛ケテクダサイ』

人間など一人もいなくなったアンドロイドだけの惑星で、その機械は人間が過ごしたような“夏”を過ごすことを夢見ていた。
しかし、この時代にはもう、夢を見ることすらも罪だった。

あとがき

初っ端から愚痴だらけのエピソードですみません。ここでお詫びをしておきます。ただ、書かずにはいられなかった。こういう内容を書く度に誰かから僕は嫌われるのだと思いますが、“表現の自由”を守るために、僕はむしろ続けます。noteの『創作大賞』がそろそろ終わろうとしているので、小説『脱人間作家』を投下するか迷っています。ちなみに何度も書いては消していて、一文字も残っちゃいません。今から書くのです。また夏になったら本気で、“浮気”と“不倫”を描いた長編小説の連載を始めるつもりです。色々楽しみにしていてください。さて、2話目では、演劇部の大事な友人について初めて書いてみました。彼自身もこの文章を読んでくれていると思うので、感想を聞くのが楽しみです。というか、反応が見てみたい。そして不思議な終わり方をした3話目については、最初から最後まで全てフィクションです。分かっているとは思うけれど。

さて、今日は七夕です。
関東圏から天の川が見れるのか調べてみましたが、どうやら見るのは難しいようです。ただ、金星がめちゃくちゃ輝くらしいので、どうぞお時間があれば夜空を見上げてみてください。僕は幼い頃から他人の幸せを喜べず、不幸ばかりを願ってきました。ただ、最近は少しばかり他人の幸せを願えるようになりました。それがどうしてかはとても言葉にできる気がしないけれど、僕は今夜、誰かが誰かの幸せを願えるように祈っておくことにします。それではここら辺で、今回は失礼して。

【完】

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