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いい歳をしてからの学校の同窓会の誘いにのるかどうかに悩む。

単純に同窓会に誘われて喜んで行く方かどうかと言うと素直に「ハイ!」と言えない。
むしろ素直に「ハイ」と言える人が何故か羨ましい。
しかも何十年か経った小学校の同窓会のお誘いだ。
もはや他人である。(初めから他人だけれど。w)
多分会っても誰が誰だか分からないだろう。
名前さえ憶えている人は数少ない。
そんな付き合いだ。

ボクの場合、地元に戻って仕事をしているがそれでさえそんな感じなのだ。
これは個人の性格故なのかもしれない。

一方、同窓会に積極的な人たちもいる。
企画する側の人たちだ。地域に根差した人や面倒見がいい人、そのコミュニティーを愛する人達。彼らの存在はある意味人間社会に必要な根源的なモノを表しているのかもしれない。大袈裟ではなく。
中には嫌々幹事に参加する人もいるがその人は別として。
歳をとればとるほどコミュニケーション能力の問題としてでも彼らのような広範囲な柔軟な多様性のあるマルチな能力のある人たちの存在は重要になってくるだろう。
幹事のことね。
対応力のない人は彼らを頼るのがベストなんだろう。
或いは対応力がない人はコミュニティーと一切かかわりなく生きていく、一人で生きていく術を選択するか、だ。
男はどうもこの辺で変な意地を張り孤立を高める傾向があるのかもしれないが女性は柔軟なような気がする。
洋画でこんなテーマの映画を観た気がするがタイトルは全く浮かばない。
海外でも状況は同じようだ。

さて、なぜ同窓会に誘われて素直に「ハイ」と答えられないのだろう。
大人になりそれなりに人間力も上がったはずなのに。
コミュニケーション能力も上がったはずなのに。

そう。
同窓会と言う過去に遡ることが心の一つのネックとなっているのではないかと推測する。
今さっきコミュニケーション能力が上がったと言ったばかりじゃないかと足元をすくうようなことを言わないでほしい。それは今現在のことで過去に戻るとまた別問題なのだろう。

更に別案件で参加不参加でボクの心を惑わすことも。
社会性を育むことで高齢者となった時の健康年齢にも関連があるという研究結果が多くあることだ。上記は一例。
やたら長生きをしたいわけじゃないけれど、健康長寿なら有難い。

そしてボクのペンは「参加」「不参加」の上を漂う。
かなり熱心に一部の知り合いに勧誘していただいてもその他のしばらく会っていないかつての同級生に会うのが億劫と言う感情は、正直な感情だ。


でも、ボクはいずれ期限内に「参加」に〇をつけ返信するだろう。
これからの自分のコミュニケーション能力向上のための訓練のために!
なんということでしょう!
そこまでの決心を要するとは!
恐るべし同窓会。
だいぶ悩んだゼ。


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