映画自評:ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』『エル・スール』を一気観してお腹いっぱい。
関心があった上映中の『瞳をとじて』を観る前に事前学習がてら前々から観たいと思っていた2本の監督作品映画を企画上映していたミニシアターがあったので観に行った。共に名作の誉れ高い映画だ。
2本観終わった直後は内容がこんがらがってどっちがどっちの話だったか分からない状態。w 以下ネタバレを含む。
まだ、「瞳を閉じて」は観てない。
ボクは十三の第七芸術劇場へ観に行ったのだが、最終日だったからか「みつばちのささやき」は、ほぼ満席だった。「エル・スール」は多少空いたのは何故?
2本観てこそエリセ監督作品だろ、と監督を1ミリも知らないボクは鑑賞後思ったモノだ。w
「みちばちのささやき」「エル・スール」と共にエンディングで綺麗に終わるところは監督の好みかと思われるが、「みつばち」の方が全体的にまとまり良く終われたのに対し、「エル・スール」は最後の方に謎の展開をして、最後で締めるという形をとった。映画としてその点で「みつばち」の方が好まれる一つの理由と思うが、確かに「みつばち」は完成度が高いと思う。
ボクの監督作品で気に入った点は、セリフを少なく観ている人に状況を理解させる映画作りをしている点と、環境音を効果的に心理描写に利用しているんじゃないかと思われる点。風の音、建物から出る音、ドアの音、犬の泣き声、など。過度な音楽が入ってこない点。最近の映画は音楽による影響が高く、ともすれば音楽によって無理やり感動させられる場面があったり、興奮を求められたりすることがあるが、映画を芸術と捉えた場合、ある程度感受性の自由を保障してほしい。
ダメだとは言っていない、程度の問題なのだ。
「みつばち」のシーンの中で、射殺された犯人の衣服から出てきた懐中時計を受け取った父親が食卓で懐中時計を開けオルゴールを鳴らし誰が家中で犯人と接触していたかを知る過程でも確か誰も一言も発せず、表情だけで知りえ、その後の失踪事件へと繋がる訳だが、この重要案件渦中の際のセリフも極端に少ない。
だからこそ余計に緊迫感が伝わるし、設定を一般家庭やおしゃべりな家庭にせず、規律を重んじ昔ながらの教育家庭にしている点でも効果は出ていると思う。子どもの会話も囁きが多い。
それにしても、この監督は「失踪」が好きなように思える。願望だろうか。
比喩的な「失踪」の意味を含めて。
「エル・スール」は、失踪とファザコン、家族愛、がテーマとして気になるところだが、女性の方は奥さん、家政婦さんをどのように見ていたのだろう…。時代だから仕方がない? この時代の女性はある意味男子より粘り強いね。
「みつばち」もアイデンティティーを確立するかのようで終わったし、「エル・スール」も「南」へ行く覚悟をすることでエンディングとなった。
共に女性のそれぞれの年代での自我の確立するところで終わっている。
「エル・スール」はファザコンだった主人公が父親のルーツの南へと旅立つことで抱え込んでいた迷いから脱却する足掛かりを得ようとする出発点となるところでの終わりとなり、観る者にとって希望が得られる演出だ。
ボクは個人的に好みの映画のスタイルとして、ハッピーエンドは好きだし、だからと言って全部の答えが出てしまっているハッピーエンドタイプは、ハッピーエンド好きでもちょっと異なるのだ。その点、この監督の映画作りのスタイルは好みのタイプと言える。共に自立する可能性で終わっているが、我々の人生と同じく必ずしも将来を約束されているわけではない。
一方、両作品とも男性、男親に対しては温かくない。「みつばち」は最後にはやや優しいが。
「エル・スール」は、男親が我儘で身勝手だけあって、最期も冷たく終わらせている。
これは、監督も男子だが、ある意味この時代の男子批判なのかなとも感じた。そうであれば時代に先駆けている、ね。
十三第七芸術劇場へ向かう道は、ワクワクして早足になりがち。
大きな交差点の信号も変わるのがもどかしく(いつも赤で待たされる、何故?)通常の交差点より道幅が長いからか信号が中々変わらない。
第七劇場がある筋の大きなアーケードを越えて広い通りを歩きながら、遠目に第七劇場が入っているビルを確認できるのだが、その手前に風俗ビルが遮るように立っているため、もし無理やり見ようとすると風俗店を探しているオヤジに間違え兼ねられない。逆を向いてみる。風俗店が並んでいる。一緒だった。
そんな十三の街中にある文化的なミニシアター第七劇場。
好きだな~。
怪しい店があり、飲み屋があり、オッサンが多く、かと言ってライブハウスもあり、駅前の新興店は入れ替わりが激しかったりする。
そんな中でのミニシアター。
やっている内容も渋い。
ドキュメンタリーが多め。
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