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本質的な思考で勝とう。

子どもにピアノを習わせるとき、
本質なのは「ピアノを好きになること」だろう。

「音楽そのものを心から楽しめるようになること」が本質であり、本当のゴールなんじゃないだろうか。

でも、もし親が強制して、嫌々やらせた結果、ピアノが嫌いになってしまったら?
大人になってもう一切触らなくなるとしたら?

それじゃあ、何の意味もないんじゃないかと、立ち止まって考えてしまう。

勉強も同じで。
子どもに勉強をさせるときの本質は、
「勉強を好きになること」だろう。
ただ義務としてやらせても、勉強が嫌いになったら意味がない。
結局嫌いなままだとどこかで伸び悩むことになるよな。
小学校の頃勉強ができた子が、中学高校で伸び悩むのを子どもの頃に僕らも見ただろう。

あれは親からの強制や、勉強への持久力が切れたから。
中学高校大学までは、小さい頃の強制力が、続かなかったからなんじゃないのか。

現代はさらに、大人になってからも学び直しが求められる時代だ。
大人になってから学べるなんてのは、
その辺りの意識の本質を確実に問われる。

だからこそ、
「好きで学び続けられる力」を育てること。
「勉強が嫌いな子」を作ってしまうことは、とても怖いかもしれないと、考えてしまう。

子どもの体の事も心配だよな。
だから、お菓子の話も同じことだよな。

子どもにお菓子を食べて欲しく無い。
でも、お菓子を禁止するなら、
本質は「お菓子に執着しない子ども」に育てることだろう。
でも、子どもの頃に厳しく禁止して、
それゆえお菓子に執着し、
親の力が及ばなくなった大学とかで、
夕食代わりにじゃがりこを食べるような人になってしまったら、禁止した意味なんてない。

これの本質を考えると、僕ら親にとって大事なのは、子どもの「食べ物に対する知性」を育てることだと思う。
ただお菓子を禁止するだけじゃなく、食の楽しさや料理や栄養をきちんと教えること。

食を考えてこだわれる人を育てる事。
親がまず、そうならないとダメなんじゃないか。
本質を考えると、そんな感じじゃないだろうか。

ゲーム、スマホの制限も同じ話だ。
僕らの子どもの頃から、ファミコンやテレビは社会的な規模でも問題だった。

「ゲームをやらせない」ことの本質は「ゲームに依存しない子ども」に育てることだと思う。

成長してもなおゲームだけに執着しているなら、制限そのものが的外れだったのかもしれない。
(個人的に僕はゲーム依存を悪いとは思ってないんだけどな。今日の論点からはズレるから。)

ゲームをあまりさせたくない意向があるのならば、ゲーム以上に面白いことを経験させてあげるとかが、ほかに目を向けれるきっかけになるのかもしれない。

ゲームVS親の「楽しませ力」みたいな。

そういう視点を親として持つのもアリなんじゃないだろうか。

親ができることは「強制」だけじゃない。
本質的なアプローチが必要だと常々思う。

結局この話も、親が
「物事の本質をつかめているかどうか」が問われてるんだと思う。

ただ、ココでは例外も伝えないと、僕のこの見解は誤解が生まれる。今日の話はデリケートな話題だからな。

例外的な補足を話すなら、

「たとえ嫌いになったとしても、それでもやらせる価値がある」
もし親がそう考えて実践しているなら、それも一つの選択肢だよな。
それは否定しちゃいけない。

将来、子どもに「これをやらせたのはこういう理由だよ。あなたは嫌がってたけども。」
と自信を持って言えるなら、それはそれで全然正解なんだろうと思う。

僕もピアノを6年間やってた。
マジで嫌だったからピアノは下手なまま、なんにも残ってない。
でも、うちの親は音楽が好きだった。だから僕にもピアノをやらせた気持ちはとても理解できる。
だけど僕が音楽を好きになった理由の本質は、結局、親が音楽が好きだったこと。
家に音楽が溢れてたことだと思う。

結論として、この話で大事なのは、
親がその選択のメリットとリスクを、
「ちゃんと分かってやっているかどうか」なんだと思ってる。

子どもに何かをやらせるなら、
その本質である、「子どもがそれを好きになること」にちゃんと親としてアプローチすること。
その本質へ精一杯アプローチしてみて、
それでも嫌いになったならしょうがないかもしれないよな。

だけど、ピアノ教室に入れるだけ入れて、あとは親は何もせず任せっきりでは、
あんまり良い結果にならないのは、わざわざ僕が語らなくても、
本当は歴史がとっくに証明してるんじゃないかな。



FXの話もしておこうと思う。

ある程度勝てるようになると、
FXは「ピプスゲーム」じゃなくなる。
1日何ピプス取ったか?ってのは、メインの論点では無くなる。

きっと僕らの本質は、
「ロットをどれだけ入れれるか」の方が結論に近い。

例えば、100枚で20ピプス取るのと、500枚で5ピプス取るのでは、後者の方が収支が上だ。

ということは、
単純に上と下を当てるのが上手くても、ロットが入れれない人は、その人より少し下手でもロットがめっちゃ入れれる人に負ける。

ニュアンスとしては、度胸ゲームだ。
勝てるようになった先に、FXは度胸ゲームになる。
非常に人間っぽくておもしろいよな。

自分の今の課題やレベルに対して、
その時々の本質を掴むことが大事だという話だ。
仲間うちで話していても、この論点をお互いが認識できてないと、けっこう的外れな会話をしてる事になるんだと思う。

自分は「ロットが入れれない人」なのか、
「ピプスが取れない人」なのか。

その認識を改めて持つだけで、課題を整理できることがある気がするよ。

僕たちは、いつまでも昔と同じゲームをしてるわけじゃないんだよな。
本質はレベルに応じて変化していくっていう、良い例だよな。

他にも、GMOやDMMで枚数制限が導入されたときも、ことの本質が変わる瞬間だったよな。

枚数制限がないときは、ただ期待値がプラスなら打ち続ければよかった。
ワンショットワンキルで、手数や全ての動きを細かく見えてる能力が、高く利を得られた時代だったということになる。

でも、1日に打てる回数が限られるようになったら、
ことの本質は、
「長い足を当てること」に変わったのかもしれない。勝率とかよりも、大きく取る力が求められるようになったんだと思う。

SBIや楽天はどうだろう。
これは、ただ単純に上か下かを当てるゲームじゃないよな。
話の本質は「スプレッドゲーム」なんだろう。

スプレッド、スベり、ズラし――
どこならスプが上がらないか、どこならレートが滑らないか、どこならレートがズレないか。

そんなものが本質になってるゲーム。
唯一の武器はロットだから、
それもどういうことなのかを、ちゃんと考えなきゃいけない。


それぞれのトレーダーが置かれた状況に応じて、明らかに話の本質がそれぞれ違うと考えるから、
みんな同じトレードをしてたら、人によって最大効率はズレるんだと思うよ。

最後に。
今日話したことに共通してるのは「思考停止の怖さ」だと思う。常に考える力だよな。

何も考えずただ禁止したり、ただやらせたりすること。
何も考えず、昨日と同じように仕事を続けること。

それが、あやふやになるのは自然な流れとしてとてもわかるんだけど、

その都度立ち止まって本質をちゃんと考えることが大事なんだろう。

本質を見誤ると結果的には失敗に繋がる。
多様性の時代だからこそ、物事の本質は、けっこう変化し続けるんだろうと思うよ。

「本質的な思考回路の形成」

これが今日のnoteの主題だ。



*写真はどこかわからん。
めっちゃ見てくるめっちゃ怖い。

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