梅の想い出: とらや「雪紅梅」によせて
梅の咲く季節になった。私はとらやの「雪紅梅」という銘の棹菓子をちびちびと切っては食べている。正しくは湿粉製棹物という種類の菓子だそうで、曙光のように透き通った白餡の羊羹が紅白の村雨に挟まれており、雪解けの時期にふさわしく、ほのぼのとした美観を呈している。柔らかい白羊羹の中で、小豆の薄皮が古城の石垣のように重なっている様や、しっとりした紅白の村雨が口の中で次第にほどける食感は、とらやの代名詞である退屈な練羊羹より断然好ましい。
菓子に合わせるのは柳桜園の初釜抹茶である。ここ二、三年、事あるごとに異なる銘柄の抹茶を試しているが、私はこれが一番だと思っている。季節外れかもしれないが、味がさらによく分かるので、春でも時々冷水で点てている。
この抹茶は、茶碗に点てた時の泡立ちの良さ、鮮やかな緑色はもちろんのこと、深い旨味に支えられた軽やかな甘みと茶の香りがたまらない。柳桜園では年の瀬に炉開き抹茶を販売しているが、年明けに同じ茶葉を挽いただけの初釜抹茶と比べて、不思議なことに甘みと香りが物足りない。
私も今は梅の花など見る術もないところに住んでいるが、こうして春の先駆けを味わっていると、懐かく思い出すのは大田区で暮らしていた去年のこの時期のことである。
あの頃、私はとにかく苦しい暮らしをしていた。前年、大学院を修了したあと、思いがけぬ事情で学業を続けることができなくなり、糊口を凌ぐためになし崩し的に仕事を探さざるを得なくなった。学費やら生活費やらを全て自分で賄っていた都合で、貯金はすでに一銭も残っていなかったが、ようやくありついた仕事は手取りで月収十四万円だった。
生活苦を理由に仕方なく戻っていた実家では穀潰しのように扱われ、収入から考えればかなりの金額を毎月納めるように言われたので、ついに我慢できなくなって身ひとつで恋人の家に逃げ込んだ。
実家がまだ素寒貧であれば、私もまだ運命を黙って受け入れるのだが、彼ら自身は自らの生活を満喫しており、なおかつ私の受けてきた教育を内心では自慢に思っている割に、当の本人に対しては全くの無理解を示し続けるのが耐え難かったのである。私は死ぬまで心の中で家族を赦すことはないと思う。
恋人、つまり今の妻との二人暮らしは、実に暖かいものだった。私の仕事は勤務時間が短く、大半はテレワークだったから、家事をしながら妻の帰りを待つことがしばしばあった。洗濯を済ませ、掃除機をかけて、風呂を溜めて、茶を淹れて、今か今かと待った。出勤日には丸の内や銀座辺りでケーキを買って帰った。
少ない給料の中で、ピエール・エルメのイスパハンやら、東京會舘のマロン・シャンテリーやら、デメルのザッハトルテやらを買い、マリアージュ・フレールや一保堂で買ったお茶を淹れて、夕食前に二人でぼんやりとする時間は豊かだった。二人で石川に行って須田菁華の器を買い、京橋でも骨董を買い、少しずつ食卓も華やかになっていった。
これまで私は異性と交際したことがないわけではなかったが、この時ほど寛いだ気持ちになったことはなかった。心配なのは毎月の金銭の遣り繰りだけだった。
ヘミングウェイが若かりし頃のパリ暮らしを綴った「移動祝祭日」を読んだ時、私には他人事とは思えなかったのは、彼もまた恋人と暮らしており、金はなかったが、生活を楽しむ術に事欠かなかったからである。
私がこの時の貧乏暮らしで得た重要な教訓は、贅沢は収入の多寡に関わらず楽しめるということであり、後に悟ったのは、多少の金銭を手に入れたところで、向上するのは快楽の本質ではなく、その頻度にすぎないということである。
当時暮らしていた、東京と神奈川の県境にある築数十年のワンルームの真隣は公園で、梅の木がたくさん植わっていた。一月の終わりにぽつぽつと花が咲き始め、二月に入ると赤に白にと満開になり、下旬まで咲き続ける。
花の盛りには、蜜のような梅の柔らかい香りがアパートの周りに満ちてくる。香りは窓を開ければ部屋中に吹き込んでくるし、玄関を開ければブーケのように全身を包んだ。日中は幼稚園の子ども達が花盛りの公園で遊ぶ声が聞こえてくるし、夕方に家を出れば暗闇の中でも香りから花を感じた。
あまりに梅が芳しいので、二人で休日に都心に出かけようと決めていても、結局昼ごろまで寝間着姿のまま香りに身を委ねてしまうこともあった。
私が年老いた時、若い頃の想いを託すのは、桜ではなく梅になるのだろう。