
迷い続ける議論の行方(『カンガルー日和』村上春樹 読書感想文)
女の子というのは実にいろんな可能性を思いつくものだと僕は感心する。
男性と女性が出口の無い議論を延々と繰り返している場面に遭遇した経験は皆さまにもきっとあるだろう。自分たちの恋愛関係について。部活動の方針について。会社のプロジェクトの進め方について。あらゆる場面で生じる議論は(その議論のトピックに関係なく)論者が男女であるからという理由のみですれ違い、出口の無い迷宮に迷い込んでゆく……
「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と彼女は言った。
僕はあきらめて新聞を眺める。
私は議論が迷走してきたなと感じたら、一度頭をまっさらにしてそれまでにあった発言を頭の中で並べてみることにしている。そしてなるべく己の感情を排除して、論理のみをもって議論の流れを繋ぎ合わせてみようとするのだ。(大学受験の現代文の問題を解く工程に似ている。「だから」という接続詞の直前には理由が述べられているはずだから……)
すると各々の発言の「癖」が浮き彫りになり、なぜこの議論が終わりに向かっていかないのか を客観的に、言葉で説明できるようになる。
発言の「癖」は性格や価値観の反映であり、言うまでもなく個人によって様々である。しかし確かに、年代や性別ごとに大まかな傾向があるように感じられる。
男女の場合はこうだ。男性は結論を急ぎ過ぎるし、女性は議論の範囲を広げ過ぎる。男性は自身の立場や名誉を守ることにとらわれ過ぎるし、女性は自身の営みに異分子を取り込まないことにとらわれ過ぎる。
これまで女の子と議論して勝ったことなんて一度もない。
いわばお互いが全く異なるルールでゲームを行っているようなものだ。よほどそれが出来レースであるか、双方の立場や実力に明らかな差がある場合を除いて、いつまで経っても勝敗は決まらない。
そんなときは更に根本に立ち返ってみる。「なぜこの議論は収拾がつかないのか」から「そもそもなぜ議論をしなければならないのか」へ。すると案外べつの解決策が見えてくるものである。
国語辞典によると、議論とは単に論じ合うことであるらしい。本来そこには、結論を出すためや、あらゆる可能性を考慮するためといった目的などは存在しないのだ。出口の無い議論とは、むしろ最も議論らしい議論を展開できている状態と言ってもよい。
「ねえ、あの袋の中に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
人々の思惑がすれ違うからこそ、議論の中でお互いが「そうだね」と思える瞬間は貴重で尊いものだ。そうだ。お互いの共感を積み重ねていくことこそが議論の本質であり価値なのだ。
「ねえ、ビールでも飲まない?」と彼女は言った。
「いいね」と僕は言った。