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「本当の自分」は、内にあるのか、外にあるのか

こんにちは。

今日は、「自分って何者なんだろう」「本当の自分はどこにいるんだろう」と思い悩んだことがある人に向けたnoteです。

私が悶々と考えただけの話にはなるのですが、少しでも受け止めてもらえたら嬉しいです。🍀

誰かに対して、こんな風に思ったことはないですか。
(あなたから見えている私は、本当の私じゃないんだよ)って。

私はあります。
誰かから「しっかりしてるね」とか言われると、口ではお礼を言いながら
(いや…残念だけど、本当の私はむしろその逆なんだよなァ。)
と心の中で密かに思っていました。

だけどよくよく考えてみると、その「本当の私」って一体何なんでしょうね。

私は、全てのものの性質には大きく分けて二つあるんじゃないかと思っています。
それは、「常に現れているもの」と、「ある状況下でのみ現れるもの」です。

これは人間以外のモノを考えると分かりやすいので、先にそっちを見てみます。

例えば塩は、水に入れれば溶けるという性質を持っていますが、その性質は水に入れるまでは現れません。

またグラスは割れるという性質を持ちますが、それが現れるのは力が加えられたときだけです。

そういう性質は、色や形のように「常に見た目に現れている」わけではないので、「潜在性」とか「能力」という風に呼ばれます。

それらは目には見えませんが、そのモノが何であるかを決める非常に重要な性質です。
水に溶けなければ、それはもはや塩ではないですからね。

では、「本当の私」というのは、一体どこにあるんでしょう。

その人の本当の能力というのは、「ありありと現れているもの」なのか。それとも、「ある状況下で初めて現れるもの」なのか……。

一見、状況によらずに一貫してあり続けるものが本質のように思えます。

けど、塩が塩たる所以である「辛い」や「溶ける」などの性質は、味わったり水に入れてみないと分かりません。
このことを考えると、潜在していて、時々現れるものこそが本質のようにも思えてきます。

「本当の自分」って、いつどこで現れるんだろう。

本当の自分を知るのは自分だけで、他人には決して分からない。本当の私は、私の内部にあるんだ。
「本当の私」について考えるとき、私は今までそういう風に思ってしまいがちでした。

だけど、塩が水に溶けるように、自分以外のものと触れることで初めて見えてくる性質というのも確かにあるのかもしれない。

何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か。…
それらは全部、外界と接触することで徐々に分かってきたことです。

そう考えると、私という個人があるのは、外の世界があるおかげのような気がしてきます。

倫理学者の和辻哲郎という人は、人間は"間柄的存在"であると言いました。

人間は社会との間にいて初めてその人たりえる。
個人なしの社会が存在しないように、社会なしの個人も存在しない。……

これを聞いて、なるほど、確かにそうだな。と思いますか?

「自分が持つこの性質、あの性質は、自分自身に内在しているものではなく、自分と外部の間にあるものである」ということに、納得できますか?

まぁ実際、その人が勇敢かは危険な状況でしか分からないし、賢いかは難しい問題を前にした時にしか分からないし、優しいかは人に接する態度でしか分かりませんよね。

だけど、自分のことを自分の力で理解しようとしている人にとっては、自分の特質が他人ありきであるということには少し納得できないかもしれません。

性質は、内在しながらも外的要因に左右されもする、ということなのかな…

ちゃんとした結論が出なくてすみません。
なんでこんなに、自分のこと分析するのって難しいんだ😂

他人と関わるのが苦手な私は、できるだけ内省によって自己分析したいと思ってしまうんですが、やっぱりそれだけに頼っていたら迷走するのかも。

でも、人と関わり合ったら本当の自分が見つかるかと言うと、かなり疑問が残ります…。

やっぱり、自分に合う自己分析の方法を見つけていくしかないですね😅
死ぬ時には、自分という一人の人間を肯定したいなぁ…。

悩める全ての人に、心からのエールを…!🍀🍀🍀

長くなりましたが、読んでくださりありがとうございました✨

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