見出し画像

トルストイ民話『名づけ子(洗礼の子)』の話

ずいぶん古い本を引っ張り出してきました。

トルストイ『イワンの馬鹿』北垣信行訳

旺文社文庫のロシア民話集『イワンの馬鹿』。
コーヒーにでも浸したのかというくらい全体的に茶色いので発行年を確認してみたら、1980年と書いてありました。納得の色合いです。

『イワンの馬鹿』は昔から好きで、太宰治と並んでよくポッケに入れて持ち歩いていた思い入れのある本の一つ。しばらく読んでいなかったので本棚の奥の方にありましたが、無事救出できたので今日はこの中からお気に入りの一作品『名づけ子』の紹介をしたいと思います。
(今では『洗礼の子』という訳の題が主流のようですが、ここではこの本に即して『名づけ子』の方で呼ぶことにします。)

『名づけ子』の話

とにかく説教臭い…というのは月並みの感想であるとともに紛れもない事実ですね。一冊通して読もうとすると途中で嫌気がさしてくるほど説教臭い本です。そういうものです。文句を言わずに読んでください(特大ブーメラン)

物語はとある貧乏な百姓の家に男の子が生まれるところから始まります。
百姓はさっそく隣に住む男へ息子の名付け親になってくれるよう頼みに行きますが、「水のみ百姓の家などへ名づけ親になりにゆくのはいやだ」といって断られてしまいます。
その後も百姓は名づけ親を探して村じゅうまわり歩きますが、中々見つかりません。
そこでよその村へ出かけると、たまたま通りすがりの旅人がやってきたのでわけを話したところ、まさかの快諾。百姓大喜び。そのうえ旅人は「洗礼をしに行ってあげる」とまで言い、翌日無事に息子の洗礼を終えることができました。

…ハイ出た聖書お馴染みのパターン‼
通りすがりの旅人という時点でもう私には彼が”よきサマリア人”にしか見えないのですが、あながち間違いでもないのではないでしょうか。トルストイ作品パターン的邪推もあるにはありますが、何より旅人の言葉の節々から福音書の例のおっさん(主人公・30歳)のようなの香りが漂ってくるのです。
百姓に対して「行って頼むがいい」的なセリフを言うシーンもあり、もうこれが紛れもなく神のひとり子だって言われなくてもはっきりわかんだね…

…とごちゃごちゃ言う暇もなく物語はさらに進んでいきます。

息子はどんどん成長し、「からだは丈夫で仕事も好きだし、それに利口でおとなしい」好青年へと完璧な変貌を遂げます。両親は大変な喜びようだったそうです。そりゃそうだ。

とある復活祭の週に、息子は自分の名付け親に復活祭週のお祝いを言いに行きたいと両親に申し出て、その人の居場所を尋ねます。ところが両親は「実はその人が今どこにいるのか、誰なのか、生きているのかさえ分かんねえんだ」ととんでもないことを言いだし、息子は「じゃ、とうちゃんかあちゃん、男の名づけ親を探しにおれを出してくれ。おらあ、その人を見つけて、復活祭のお祝いを言いてえんだ」と悟空さながらの口調で訴えます。そうして両親に許可を得た息子は自分の名づけ親を探しに出かけることとなりました。

ここからの展開は本当に電光石火のはやわざです。息子はたった半日歩いただけで例の旅人と出会い、「わしがおまえの名づけ親だよ」という衝撃の告白を受け入れ、喜んで復活祭の祝いの言葉を述べると、その”名づけ親のおじさん”なる人に家へ案内されます。ここからのくだりがひたすら面白い(当社比)ので抜粋させていただこう。

名づけ親は、今度は名づけ子を屋敷の中へ入れてやった。(中略) そして、最後に名付け親は、封印のしてある戸口へ連れてきて、こういった。
ここに扉があるだろう?この扉には錠前はない、封印がしてあるだけだ。これはあくことはあくんだが、わしはおまえにあけることを禁じておく。おまえは好きな部屋で好きなように遊び暮らしていい。また、どんな楽しみも勝手だが、ただ一つ禁じておくことがある。それは、この扉のなかへはいってはならぬということだ。中へはいろうものなら、おまえは森のなかで見たことを思い知らされることになるのだ
名づけ親はそう言いおいて、立ち去った。

トルストイ『名づけ子』北垣信之訳

お分かりいただけただろうか
『見るなの屋敷』や『ウグイス長者』などと呼ばれる日本の有名な昔話とほぼ同じ展開ですね。日本に限らず民話と言えば罪と罰の応酬の物語のような気もしますから、昔話あるあるのパターンなのでしょう。

例に漏れず、この息子も言いつけを守れずに扉を開いて中の部屋に入ってしまいます。さらにその部屋の中で色々あって一人の泥棒を殺してしまい、大いに罪を犯し、もちろん全部名づけ親にバレて、ここから彼の罪の償いの長い歩みがスタートするのです。

ここに関しては日本民話ではなかなか見かけない、キリスト教的な宗教観が垣間見える印象的な展開ですね。

『見るなの屋敷』では確か主人公が扉を開けると目の前に冬の景色が広がっており、そこで無残にも凍え死ぬという終わり方だったような気がします。合ってるかしら。とにかく大抵の日本民話は禁忌を犯すとそこで一発アウトの世界なのです。それに対し、こちらの作品ではむしろ禁忌を犯した時点から新しい償いのストーリーが始まっています。”罪の赦し”の価値観の違いですね。人間は自分の罪深さに気づき、神の御心に触れて初めて本当の救いとは何かを知る、という世界観。
日本の民話で悔い改めがメインテーマとなる昔話ってあるのでしょうか。分かりません。仏教的な観点で言ったら修行がキリスト教のそれに近いような気もしますが、適当なことを言うのはよくないですね。お許しください。修行します。

ここから先には、追い剥ぎが登場したり(蘇るサマリア人)、リンゴの木が登場したり(聖書的には実はリンゴじゃない説が有力)と、主人公はあらゆる場面で神の言葉の真意を理解し、無事最後には自分の背負った罪を償いきるという展開。そうしてめでたく物語は終了。

…いや罪を償いきるってどいうことだ?自分自身で償いきれるものだというのならイエス・キリストの存在価値自体が怪しくなってくるだろう。

どうやら実際にこの本は、1886年にとある雑誌で発表しようとした際、宗教検閲の結果「これほど反宗教的な本はない」という理由で発禁処分になった過去があるそうです。のち1906年にようやくこの出版社からの単行本の発行が始まったそうですが、やはり上記のような理由からではないかと勝手に妄想しております。信じるか信じないかは、信じるか信じないか次第です。

最後に

トルストイは堅苦しいイメージがあるけど短編の民話だとそうでもない。展開の見えやすい話が多いので、むしろ読みやすいものが多いです。それより説教臭さに飽きる可能性の方が大いにあるな…。まあ面白いのでとにかく一度読んでみてください。

余談ですが、「トルストイ 洗礼の子」で検索してみたらWikiに『洗礼の子-その子は禁断の扉をあけて泥棒を殺した。その罪を償う冒険小説。』と書いてありました。ちなみに冒険の定義は同じくWikiによると『日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くこと』だそうです。
…定義見る限り当てはまってはいるけど本当に冒険小説でいいのかコレ…?

…まあいいや。信じるか信じないかは(以下略)



以上です。読んでくださった方ありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?