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フロイト入門まとめ① 精神分析の誕生

4か月前の記事で一瞬登場したコイツです。

前に河合隼雄著の『ユング心理学入門』に手を出した時はそれなりにすんなり読めたので、フロイト入門の方も深く考えずに読み始めたのですがこれがなかなか進まない。入門書なのでフロイトの精神分析学にまつわる様々な理論や解釈、思想などが掻い摘んで記されているわけですが、後半に行くにつれてだんだん雲行きが怪しくなり、もしや漏れは実はユング心理学入門の方もちゃんと読解できていなかったんじゃないかといういやな予感がした場面もありましたが…まあとにかく読み切りました。

今回はこの中山元著『フロイト入門』に書かれていた内容の要点を整理する目的で、特に印象的だった部分を取り出して順番にまとめていきたいと思います。そして今回は記事が長くなりそうなので何回かに分けて投稿します。全部で7章あります。


第一章 精神分析の誕生


フロイト自身が挙げた有名な譬えとして、「フロイトの精神分析は、それまでの二度の革命に次いで、人間から宇宙の主人としての地位と誇りを奪う第三の革命だ」とするものがある。具体的にその革命とは、第一にコペルニクスの地動説によって、第二にダーウィンの進化論によって引き起こされた。そしてフロイトの言う第三の革命とは、精神分析によって「人間の自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないこと、そして自分の心的な生において無意識に起こっていることについては、依然としてごく乏しい情報しか与えられていない」ということを思い知らされたという点で、「近代において啓蒙の理念を支えていた理性への信頼を根底から覆すものであり、それまでの二つの革命よりもさらに根本的に、人間の自己への信頼を揺るがすことになった。」のである。

ニーチェの「神は死んだ」という言葉はあまりにも有名ですが、デカルト哲学に始まる近代社会において、人間による「神殺し」という行為がいかに恐ろしいものだったのか、そして一時はその神の座を奪った人間の絶対的な「理性」というものがいかに脆弱で信仰に値しないものなのか、「精神分析」という新たな分野が生まれるに至った経緯が歴史を追って書かれています。

なお「人間が神を殺した」という文脈の中で一番に取り上げられるのは勿論フランス革命に関することであり、「神様はフランス人を嫌ってるって母ちゃんが言ってたぜぇ~(cv.LiLiCo姉貴)」というカートマンの発言がすかさず頭の中で再生されましたが、語弊を生むのですぐさま一時停止しました。もっともこれの理由は「ゲイばっかだから」とかだった気がしますが…

やりぃ〜

あとこの章の中で重要なことと言えば、フロイト自身のプロフィールについて。彼は学生時代には法学の研究を志したこともあったが、ゲーテの自然についての文章を読んで、自然についての学である医学を専門に学ぶことに決めたそうだ。1881年に医学の学位を取得し、医者の免許を獲得したフロイトは、そのまま進めば助手、助教授と経て教授になることが期待できたはずだったが、ユダヤ人であるために、将来は研究者としてのキャリアを得ることが困難であり、むしろ医師として生計を立てるべきだ、という当時の教授に勧められたこともあって総合病院に勤務。その後1885年に奨学金を取得してパリのシャルコーの研究室に半年間留学することになり、そこで「催眠術による神経症の治療」というアイデアを得る。

フロイトが精神分析による(催眠術を用いない)神経症の治療法に行き着くにはそれから何年も要するのですが、見て分かる通り彼の精神分析に関する研究の基盤は彼が臨床医として実際に患者と接してきた中で培われたもので、心理学者というよりは神経症医、医者としての立場が強い。この本ではフロイト自身の著作をもとに彼が提示した精神分析やその他色々な神経症の諸症状に関する見解を述べられていて、その中でも実際の症例が多く取り上げられているので、読んでいてもそういうフロイトの「手法」がより一般的な科学的手法に基づいている印象を受けます。と言ってもこれは私の感想なので実際のところどうなのかは分からない。当時はやはりこうした面でのフロイトの研究に対する批判も一定数あったそうです。

第二章 忘却と失錯行為

第一章でフロイトがシャルコーに学んだことには触れましたが、第二章ではまず、シャルコー、『ヒステリー研究』を共著したブロイアー、そしてフロイトの三人がそれぞれ開発した神経症治療の手法モデルに関する相違点が書かれています。

共通点として挙げられるのは主に三つあり、一つ目は「催眠状態を使う」、二つ目は「患者と身体的に接触する」、三つ目は「患者の病の原因を性的なものとみなして、そこに症状を解決する道を見出す」こと。そして主だった違いといえば、治療行為における医者と患者の能動/受動性の差異がそれ。詳しいことは省きますが、シャルコーは「医者の動性と患者の動性」、ブロイアーは「医者の動性と患者の動性」、フロイトは「医者の動性と患者の動性」というふうに表現することができる。「患者に求められることは医師の助言に従うことであり、患者は自身の持つ病気に関する知識は要求されない」という現代の医者と患者の関係性は、これで言うとシャルコーの「医者の能動、患者の受動」が一番近いですね。

そして第二章ではさらに「忘却と遮蔽想起」、のちに彼が放棄することとなる「誘惑理論」、言い間違いやジョークなどに代表される「失錯行為と機知」という題のもと、神経症の患者に見られる諸症状と関連付けられた日常の様々な無意識の現象について例を挙げて説明されています。
特に「失錯行為と機知」の中では、「人はなぜ面白いと笑うのか」という非常に一般的かつ難解な問題を含む考察がなされていて、中でも、機知という概念が持つ様々な要素をジャンルごとに分類して考察した記述が面白い。ジョークウィットアイロニーナンセンスと大きく四つに分けてそれぞれの持つ特徴が説明されています。

ジョーク

機知の営みのうちで、何よりも言葉としての面白さを利用するもの。
ジョークには我々が夢を見るときに行われる「圧縮」と「置き換え」の技法がふんだんに使われている。

ウィット

当意即妙な言葉遣い。例えば、

さる皇帝が自分の国内を旅していて、大勢の人々の中に自分ととても良く似た一人の男を眼にとめる。手招きしてその男を呼び寄せ、そして尋ねる。「そちの母親はかつてわが居城に働いておったものであろう?」「いいえ、陛下」と、その男が答える。「しかし、私の父が働いておりました。」

皇帝は自尊心による抑圧の力によって、また若者はその皇帝の権力による抑圧の力によって、それぞれの思想内容を機知で語らざるを得なかったのである。ただしこれは機知の発生メカニズムであって、それを享受するメカニズムは別に解明しなければならない。これに関してはまた後でまとめます。

アイロニー

「あてこすり」や「ほのめかし」などもこの技法に当てはまる。
フロイトはアイロニーを「反射物による提示」と定義していて、その実例としてシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に出てくる哲人皇帝の「アイロニーのうちにブルータスの人格の高さをほめたたえる」セリフを挙げている。

ナンセンス

有名な鍋の話がある。

ある人が銅の鍋を別の人から借りた。それを返却した後で、鍋を貸した人から訴えられた。鍋には使い物にならないほどの大きな穴が開いていたのである。鍋を借りた人は次のように弁明した。「第一に、私はその相手から鍋を借りたこともない。第二に私がその人から鍋を借りたときには、すでに穴が開いていた。第三に、私は鍋をもとのままの状態で返却した。」

「これらの弁明は、それだけ見れば立派である。しかし全部まとめてみると、たがいに他を排斥しあう。」のだ。これらの三つの答えが同じ人の口から語られると、ナンセンスとしか言いようがないのです。

機知による笑いのメカニズム

このような「機知」を我々が享受したとき、そこに笑いが生じるのはなぜでしょうか。
このことについてフロイトは、機知の言葉を耳にすると快感が得られることを指摘しながら、「そのような快感の獲得には心的消費の節約が対応する」と主張しています。この主張の背景には心的エネルギーの経済論的な考察があり、フロイトは機知のすべての技法とそれによる快感は「すでにある心的消費の軽減と、これから投入されるべき心的消費の節約というこの二つの原理」に還元されると指摘している。

一言で言えば「圧縮と放出」の動きのモデルなのではないでしょうか。具体的にイメージするなら、ジェットコースターがてっぺんに向かう中で高まっていく緊張感と、一気に滑り落ちることによる開放感。あとくしゃみをするのも似たようなものじゃないかと思います。
第三者は機知の言葉を聞くことで(ウィットの例えで言うなら皇帝の発言によって)緊張の増大という心的消費が起こり、機知として優れた返答を耳にすることで(若者のウィットな返答によって)緊張が解きほぐされ、心的消費の軽減が起こる。その結果が身体的には笑いとして現れる、というわけです。

ここでポイントなのは、ジョークを語る本人は笑うことができないのに、それを聞く人が笑うという事実。「自分が思いついた機知、自分が語った機知について、私自身は、その機知に明らかに満足感を味わっているにもかかわらず、笑うことはできない」のです。それはこの既知の「聞き手にあっては備給の消費が廃棄され、発散されるのに、機知を形成する側では、その負担の廃棄可能性あるいは排出可能性のいずれかに妨害が生じる」からだそう。とにかく機知を語る側は、それを作り出すために心的なエネルギーを消費するので、満足は感じても解放感を味わうことはできない、ということになるのです。

あと話が戻りますが「忘却と遮蔽行為」というのは、我々が誰でも一度は経験したことのある「言い間違い」や「度忘れ」などの行為が、それらの発生する過程で「無意識」の存在が大きく作用しているという点で神経症の患者に見られるヒステリー症状とよく似ている、というもの。ここではフロイト自身の度忘れの実例とそれに対する彼自身による分析が紹介されており、正直言語系統が我々とは全く違うので完全に納得したとは言いづらいのですが、とても説得力のある分析がされていて興味深かったです。

どうしても「シニョレッリ」が思い出せなかった時の
フロイトの分析


最後に

今回は第二章まで。本書に沿って第七章まで書くつもりなので、これから2、3回はフロイト入門まとめが続くと思います。第二章の誘惑理論について全然触れられなかったけど、この先でも出てくる箇所があるのでその時に書けたらいいナ。道のりは長いぜ。


以上です。読んでくださった方ありがとうございます。

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