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【小説】もう犬は吠えない ⑨

実話をもとに書いた小説です。


(コロは吠え癖のある犬で、近所から苦情がくることもあった。早苗は心を病むほど悩んでいた。しかし13歳になり認知症になったか、急に吠えなくなった。しかしほっとしたのもつかの間、しばらくしてまた吠えるようになってしまった。早苗のうつ状態がぶり返した)


 2月になった。
 コロが少しずつ吠えるようになった。一声吠えた翌日、夕方1時間ほどキャンキャンと悲鳴のような声で吠えた。
 同じだ。
 また吠えるようになってしまった。
 早苗は散歩をしながら泣けてきてしまった。
 翌日も翌々日も、コロはよく吠えた。午前中からずっと吠えていることもあった。完全に思い出したとでも言いたげだ。
 コロが吠えると泣けてくる。早苗は1日泣いて暮らした。吠え声を聞くとドキドキと心臓が脈打ち、ハアハアと過呼吸になった。
 吠え疲れて静かになると、またいつ吠えるかと思い泣けてくる。どうか吠えないでと思って泣いている。
 夜は吠え声におびえて寝られない。夜中に吠えたらどうしよう。寝ている場合ではないと思う。心配でずっと外の方に耳を澄ましている。
 そのうちに、寝入りばなに犬の吠え声が聞こえるようになった。コロが吠えたかとびっくりして目を覚ます。空耳だったようだ。しかし心臓がドキドキして眠れない。そのうちにふうっと眠くなる。寝入る寸前に犬の吠え声が聞こえる。びっくりして目が覚める。心臓がドキドキして眠れなくなる。
 早苗は布団の中で、そんなことを延々と繰り返していた。
 そしてとうとう感情が大爆発した。
 早苗は号泣して、夫の敏和に迫った。
「コロの声帯、取りたい。もうそれしかない。もう嫌だ。もう嫌だ」
 早苗は、顔をおおって泣いた。
「もう泣くなって」
 敏和は困り果てていた。

 翌日再び動物病院へ行く。
「どうでした?」
 医者は睡眠薬の効き目を聞いた。
「2時間で起きちゃいました」
「そうですか。もう少し強い薬にしてみますか」
「あの、声帯を取るというのは」
 もう我慢がならなかった。早苗は声帯を取ってもらわないと、もう自分は生きていけないと思い詰めていた。
「老犬ですからね、手術に耐えられないだろうと思います。麻酔をしたらそのまま目覚めないということもあります」
「それでもいい」
 早苗は敏和に向かって言った。先生に言うにはやはりはばかられた言葉は、敏和に向かうしかなかった。
「愛護センターに持っていってもいい」
 止まらなかった。早苗は先生の前で声を出して泣いた。
「もう少し強い薬をもらえませんかね」 
 敏和が先生に言った。
「そうですね、もう少し強い薬を出しますね。もし夜中に目覚めてしまったら、また飲ませてください」
 先生は昼間に遊んでやると夜寝るとか、からだ全体がくるまるような寝具にすると安心するとか以前言ったことを繰り返した。
 早苗と敏和はもう少し強い薬というのをもらって帰ってきた。夜中に起きたらまた飲ませるというのは、早苗の心をずいぶん軽くした。結局、そういう飲ませ方はしなかったのだけれど。
 
 病院から帰って、夕方散歩に出た。雨が降っている。冷たい雨だった。
 早苗は自宅の庭に入ったところで、またコロが吠えると思うと苦しくなって動けなくなってしまった。涙が出てしょうがない。
 早苗はずっとそこに立っていた。コロは立ち止まる早苗とともに立っていた。先に進もうとすることもなく、人と犬はずっとそこに立ち続けた。
 自分が死んでしまえばもう苦しくないのにと、早苗は一瞬思った。たかが犬のことでと慌てて打ち消したが、そのくらい苦しいことを誰かに知ってほしかった。助けてほしかった。
 翌日コロは1日中吠えまくり、夜になって静かになった。しかし午前4時、また起きて吠えている。
 睡眠薬を使おう。
 早苗は敏和を起こし、コロに睡眠薬入りのチーズを食べさせた。そして犬を犬小屋に押し込むと、周りに布団や防音シートなどを幾重にもかぶせた。
 そうしてしばし静かになったコロだったが、朝の7時には起きてしまい、また吠え始めた。いつもと違う、より一層激しい吠え方だった。それが延々と休みなく続いた。薬のせいで脳がどうかなってこんなに狂ったように吠えているのではと早苗は思ったが、確かめるすべはない。
 コロは丸1日吠え続け、夜の11時半になっても吠えていたため、再び睡眠薬を飲ませることにした。
「2時ごろ起きるかもしれない。そうしたらまた飲ませればいいね」
 早苗と敏和はコロに薬を飲ませるとまた小屋に押し込み、ビニールシートで覆い、周りを布団や防音シートで覆った。ビニールシートはこのために特大のものを2つ買ってあった。ベニヤ板や廃材も使った。


 コロは、朝7時になっても8時になっても吠えなかった。
 8時半に散歩に連れ出そうとシートをめくって犬小屋の扉を開けた。
 敏和も異変を察してついてきた。
 犬は寝ていた。
 敏和がさっと身を引いた。
 意識をなくした犬が、ぐったりと横になっていた。
 リードを引っぱってみる。顔が動いた。しっぽも動いた。
「生きてる。爆睡」
 早苗は、数歩下がって遠巻きに見ている敏和に声をかけた。
 しかし起きてこないので、散歩は行けなかった。
 起きてほしい気持ちとこのまま起きなくていい気持ちが早苗の中に奇妙に同居していた。
 昼が過ぎ、夜になった。犬はずっと寝ている。
 早苗は以前、猫を亡くしたことがある。死後数時間で死後硬直がきてカチカチになってしまった。
 夜、息子と犬小屋を見に行って犬がいつまでも柔らかいのを確認した。
「死後硬直がきてない」
 早苗は息子に言った。ただどれだけゆすっても無反応だった。
「死んじゃったんじゃないか」
 敏和が言った。
「死後硬直がきてない」
 早苗は敏和にも言った。
 死んでほしいのか生き返ってほしいのか、彼女は自分でも分からなくなっていた。

 
 翌朝、犬はそのままの格好でカチカチになっていた。
 大きい段ボールに犬を入れて、市の火葬場に持っていく。早苗と敏和は淡々と作業を終えた。
 
 もう犬は吠えない。




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