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【小説】もう犬は吠えない ①

実話をもとに書いた小説です。犬の吠え声によるご近所トラブルで、早苗の精神は壊れていきます。



 早苗は犬を飼っている。6歳になる柴犬だ。名前はコロという。
 柴犬の犬らしさが好きだ。ミニチュアダックスフンドやトイプードルなどはちゃらちゃらした感じがする。夫の敏和は犬は外につないでおくものといって、最初から家の中で飼う想定はしていなかった。その点でも柴犬はよかった。犬は庭の農機具小屋の前につないである。

 早苗は朝夕、犬を連れて界隈を歩く。彼女は54歳。ボランティアとヘルパーの仕事を掛け持ちしながらも家にいる時間は比較的長く、平穏に毎日を送っている。

 犬が吠え始めるきっかけとなったのは、義父にヘルパーさんを頼んだことだった。
 義父は90歳を越す頃から急激に足腰が弱り、今は立つことすらままならない。1日ベッドで寝ているため、昼夜が逆転するようで、夜中にひんぱんに早苗と敏和を起こした。
 困り果てていると義姉が、夜中におむつ替えに来てくれるヘルパーさんがいるという。藁にもすがる思いで、その人にお願いすることにした。早苗は、これで朝まで寝られると思った。
 それがすべての始まりだったのかもしれない。
 少なくとも小さなきっかけだった。
 犬にも、早苗にも。 

 早苗は夜中に犬の吠える声で目が覚めた。犬がつないである農機具小屋は寝室から遠いところにあり、吠え声は小さかった。しかし渾身の力で吠えているのは分かった。
 吠え声はすぐやんだ。時計を見ると2:00とある。午前2時! こんな時間にと思ったが、早苗はそのまま睡魔に飲み込まれるように寝てしまった。
 2日後、また犬の吠え声で目が覚めた。2時だ。おじいちゃんのヘルパーさんが来たのだろう。ありがたいなあ、でも犬がこんな時間に吠えては迷惑だなあと思いながら、早苗はまた寝入ってしまった。
 事の重大さに気づいたのはその朝だ。
 早苗は敏和にたずねた。
「ねえ、きのうってコロ、吠えたよね」
「吠えてたね」
「毎晩吠えてる?」
「ヘルパーの人に吠えるんだろう」
「うるさいよね。すごい吠えるじゃん」
「しょうがないよ」
 近所迷惑じゃないかと早苗は言った。敏和はしょうがないと言うばかりである。どうしようというと、敏和は「ほっとけ」と言った。
 不思議なもので早苗はそれで心が少し軽くなった。敏和がほっとけと言うとそうかなと思ってしまうのだった。

 しかしすぐに、ほっておけない事態になった。
 保健所から中年の男の人が来た。
「犬がうるさいと近所の人から苦情がきています」
 係の人は申し訳なさそうに言った。そんなにへりくだらなくてもと思うほど低姿勢だった。
 早苗はその柔らかい言葉の中に、きっと苦情を言ったであろう人の鋭いとげを感じていた。悲しく痛いとげだった。
 それからは毎晩、犬が吠えたらどうしようと、そればかり考えて眠った。

                           (つづく)


     
            

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