【小説】もう犬は吠えない ⑥
実話をもとに書いた小説です。犬の吠え声によるご近所トラブルで、早苗の精神は壊れていきます。
コロは13歳。老いてヨボヨボなのだが相変わらず吠える。早苗はコロの吠え声に、精神が壊れかかっていた。
秋も深まる頃、早苗は夫の敏和とともに動物病院を訪れた。犬が吠えることを相談したかった。心の中では、声帯を取る手術のことを聞いてみようと思っていた。
病院には早苗たち以外おらず、先生はもう20分も早苗たちの話を聞いてくれている。
犬が吠えて困ると言うと、先生は解決方法をいくつか話してくれた。しかしどれも、家でかわいがっていた犬が老いて認知症になり吠えるようになったという前提だ。
毛布で包むようにすると安心するとか言っている。
「毛布なんか粉々に噛みちぎります」
経験済みなのだった。
早苗に犬に対する愛情はもうなかった。
「昼間いっぱい遊んであげて、なんとか夜寝るように仕向けるという手もあります」
「先生」
遊んであげるなんてしたことない。噛みつかれるのが恐いから。
「声帯を取るというのは」
早苗はもうそれしかないと思っていた。先生の顔が変わった。
「それは」
困った顔だ。
「それはかわいそうです」
敏和が言った。
先生がうなずいた。それはやめておいた方がいいでしょうというようなことを言った。
「あの、声帯をとっても声は完全にはなくならないんでしょうか」
「そうですね」
「でも小さくなる」
「多少はなりますね」
「費用は」
「それはやめよう」
敏和が会話をさえぎった。
「落ち着かせる薬を飲ませるという手もあります」
先生がすかさず言った。敏和が大きくうなずいた。話がそちらに大きく傾いていった。「どのくらい効くか試してから使ってください」
声帯を取るという話は敏和と先生によって瞬時に消され、もうそれ以上何も言えない雰囲気になった。
「5時間ぐらい効くと思うのですが」
結局、落ち着かせる薬というのをもらって帰ってきた。早苗も敏和も、それを飲めば5時間ぐらいは眠るという解釈だった。
5時間。
「夜12時に飲ませても5時に起きちゃったら困るよね」
帰りの車の中で早苗は言った。
翌日、夜コロがすごく吠えるのでどうしようもなくなって玄関のゲージに入れたら、すさまじい勢いで吠え続けた。もうかなり遅い時間だったが、敏和が散歩に連れ出し、1時間半も歩き、農機具小屋に入れたらおとなしくなった。鎮静剤は使わなかった。
早苗はゴキブリの小さいのが風呂や家じゅうにいる夢を見た。夢から覚めても脳裏に小さいゴキブリがはい回る床や壁が浮かんだ。おぞましい夢だった。
翌日も夜ものすごく吠えたので、敏和が2度も散歩に連れ出した。
早苗と敏和は、とりわけ仲の良い夫婦というわけでもないのだが、この頃敏和はコロが吠えるとどんなに遅い時間でも散歩に連れ出してくれる。早苗は感謝しかなかった。そして散歩に行くと、1時間や2時間帰ってくることはなかった。
コロは毎日吠えた。
早苗はコロが吠えるたびに心がきゅーっとなる。コロがいなかったらどんなにいいだろう。飼わなきゃよかった。過去に戻って犬を飼わない人生にしたいと心から思った。
その夜早苗は、ナタで切りつけられる夢を見た。悪夢が次々と襲ってくる。
大晦日。
午前三時にコロが吠えた。
来年の願い事は、コロの死。
早苗は農機具小屋に犬をとじこめて家に戻ると、そんなことを思っていた。きっと悪魔に取りつかれたような顔をしていたことだろう。