【小説】もう犬は吠えない ⑧
犬の吠え声によるご近所トラブルで早苗の精神は壊れていきます。実話をもとに書いた小説です。
コロは13歳。吠え癖のひどい犬だった。しかし正月三が日を過ぎ、突然吠えなくなった。老いが犬を襲ったのか。
朝早苗が農機具小屋を開けてみると、コロはすでに起きていた。散歩に行くよと鎖を引っぱってみる。犬小屋から出るのにも難儀しているようだ。ほんの10センチほどの高さも怖くて降りられない。
歩きたがらないので引っぱってみる。数メートルで、シャーっとおしっこをした。
あとはひょこんひょこんとゆっくり歩きだした。少し行っては引き返し、また少し行っては引き返し、下を向いてゆっくり歩く。しっぱは垂れたままだ。
たまにぐるぐる回ることもある。
「とうとうボケちゃった」
早苗は散歩から帰って、夫の敏和に言った。
「ずっと、行ったり来たりだろう。あっち行って、こっち行って」
早苗にとって敏和は、戦う同士だ。
コロは散歩から帰ると、農機具小屋の前で黙って立ちすくんでいた。下を向いて。しっぽは垂れたまま。
ずっと昼まで何時間も、そうして立ちすくんでいた。
午後になると、コロはどうやって入ったかいつの間にか犬小屋に入って死んだように眠ってしまった。
夕方散歩に行こうと小屋を見ると、ご飯がそのまま残っている。急にどうしたんだろう。早苗はこれは病院案件かと思う。
そう思いながらいつも通りコロを散歩に連れ出し、そのまま小屋につないでおいた。
治って元気にならない方がいい。
その夜のご飯も、コロは食べなかった。
翌日も翌々日もコロは吠えなかった。小屋を出て10メートルほどの所で、シャーっとおしっこをすると、あとはひょこんひょこんと行ったり来たりを繰り返し、時々同じ所をくるくる回ったりして早々に散歩を終える。その後はしっぽを下げ、下を向いて小屋の前へ立ちつくす。
午後はいつの間にか小屋の中にいて、死んだように眠っている。そしてご飯を食べない。
全く同じ3日間が過ぎ、早苗も敏和もコロの死が近いことを感じていた。
小屋の前に立っているときは、生気が全くなかった。来客があっても吠えない。
久しぶりに早苗の母親と弟が来た時、母は「コロちゃん吠えないね」と言い、弟は「元気がない」と言った。
早苗は「もうじき死ぬ」と言った。
弟がびっくりして早苗を見た。
外は雪がちらつく。1年で1番寒い時だ。散歩がつらい。
早苗はコロの口元にご飯、それも高級なウエットフードを持っていくと食べることを発見した。大好きなウエットフードだ。
早苗は、「お、食べるじゃん」と思ってウエットを大量に買い、食べさせた。コロはがつがつとよく食べ、歩きも心なしかしっかりしてきた。
早苗は底冷えのする農機具小屋で、コロの食器にフードを入れて口元に押し付けるようにして食べさせた。
よく食べる。
こんなによく食べて元気になって、また吠えるようになったらどうしよう。早苗は自分がコロに食べてほしいのか食べないでほしいのか、よく分からなくなっていた。いったい自分は何をやっているのだろう。
寒い農機具小屋でめまいがするほどそう思った。
食べたらうんちが出る。
コロは犬小屋でうんちをもらすようになった。毎日小屋の布団がうんちだらけだ。
下痢のようなうんちをして、その上で動くので、布団全体にうんちが広がっている。
早苗は庭の脚立に布団をかぶせ、うんちを拭いていった。庭に大きなカメが置いてあって水をためるようになっている。そこに雑巾を浸してうんちを拭く。寒い。冷たい。
カメの水には氷が張っていることがある。
「うわあああ、冷たい!」
早苗は悲鳴をあげながらうんちを拭いた。
でもそんなに嫌ではなかった。
敏和はうんち拭きは手伝わずに見ているのだが、「大変だね」という彼に、
「吠えるよりいいー。うんちもらしてもボケても、吠えるよりいいー」
早苗はちょっと楽しげに言った。
ボケちゃったコロは少しかわいかった。うんちは苦にならなかった。
「あっち行ったりこっち行ったりぐるぐる回るコロ、かわいいじゃん」
早苗は散歩の後、何度か敏和に言った。
1か月ほどそのように過ぎていった。
早苗も敏和も、もうコロは吠えないと思っていた。このまま老いて、近い将来死を迎えるものだと。
しかしよく食べるし、まだ歩く。しばらくは死なないだろう。ただただ吠えませんようにと、祈るように過ごしていた。
だから1月最後の日コロがキャンと小さく吠えた時、早苗は一気に絶望の淵に突き落とされた気分だった。