【小説】もう犬は吠えない ③
実話をもとに書いた小説です。犬の吠え声によるご近所トラブルで、早苗の精神は壊れていきます。
早苗の家の犬、コロは外飼いだ。夜中にヘルパーさんに来てもらうようになってから吠えが始まった。ヘルパーさんに辞めてもらっても、何かのきっかけで吠えまくり、何時間でも吠えていることがあった。
コロの吠えはエスカレートしていった。隣の家をずっと見張っていて、人の出入りがあるたびに吠えた。家の人に、宅配の人に。
もちろん自分の家への人の出入りには、以前から吠えていた。しかしこの頃から、その吠えも常道を逸するようになっていた。
目の前を人が通ると渾身の力で吠えた。お客さんが心臓を悪くしそうなくらいだ。義姉の孫はあまりの恐さに通路を通れなかった。ガスや水道メーターの検針の人が来ると、検針の間じゅうずっと吠えまくった。いや、検針がすんでも30分でも1時間でも吠え続けた。
その頃早苗の家に無言電話が何回かかかったことがある。電話に出ると切れる。犬に怒った近所の人の嫌がらせだ。早苗は泣きたい気持ちだった。
保健所から2度目の訪問もあった。低姿勢の役人はまた、苦情がと言った。
「殺すわけにもいかないし」
どうすればいいのか教えてほしかった。
役人は苦情があったとひとこと言うと、そそくさと帰っていった。
飼い主も困っている。困り果てているのだ。
それから5年の月日が流れた。コロは11歳になった。
犬は十一歳で認知症になるのだろうか。認知症になると吠え続ける犬がいると、早苗は何かで読んだことがある。
コロは明らかに今までと違う、長時間ただただ吠える犬になってしまった。
名古屋の6月はすでに過酷だ。30度の真夏日すら現れる。
犬が吠え始めた。
人が来たからではない。雷が鳴ったからではない。理由が分からない。朝からずっと吠えている。
早苗は頭を抱えた。
とにかく農機具小屋に入れよう。
犬小屋につないである鎖を引っぱって、農機具小屋に入れようと試みた。
わんわんわんわん!
コロは明らかに逆ギレして、早苗に激しく吠えたてた。噛みつかんばかりの勢いだ。手は出せない。
農機具小屋の前に出ていた、枯草を集める道具で犬を追い立てようとした。しかし棒状のものはご法度であった。昔敏和にたたかれたのを覚えているのだ。
犬は本当に賢い。というか記憶力がいい。よすぎる。
まだ小さい頃、敏和が近づいたら急に吠えて噛みついたことがある。何かにびっくりしたのだろう。敏和は噛みつかれたショックと手の痛みでキレた。近くにあったほうきでコロをしこたまたたいたのだった。もう8年も前のことだ。
それをよく覚えているのだ。棒状のもの、特にほうきを持つとコロは狂ったように吠える。
早苗はコロを農機具小屋に入れるのをとうとうあきらめた。
認知症だろうかとも思う、暑さのためかとも思う。はっきりりした理由が分からないまま、犬は連日吠えた。
早苗は今日も吠えるのかとドキドキしていた。
連日ドキドキしている。
昨日も吠えた。
今日も吠えた。
きっと明日も吠える。
その頃から早苗は、コロの声帯を取りたいと思うようになっていった。
早苗は、「コロの声帯、取りたい」と愚痴のついでのように言ってみた。
「かわいそう」と敏和は言った。
「だって、うるさい」
早苗の心がしんどいと言っている。
「そんなに気にならないって」
敏和はいつものことばを口にする。
この人の耳はどうなっているんだ。
どうすればこの吠え声が気にならないと思えるのだ。
早苗の心が、犬を飼うのはもうしんどいと言っているのだ。
毎日毎日犬は吠える。早苗は気が塞ぎ、何もする気が起きなくなっていた。