そばは噛んではいけない、えっ?(役に立たないそば屋の話11)
東京で過ごした若い頃、よく寄席に通った。
鈴本だったか、末広亭だったか忘れたが、
ある時「小さん」がひょいと顔を出した。
今では息子さんが「六代目 小さん」を継いだけれど、
これは先代の「小さん」。
丸顔の、ひょうきんな表情が印象的な師匠だった。
当時はまだ人間国宝にはなっていなかったけれど、
落語界では、もうかなりの大物、
本来なら「とり」をとるべきなのに、
こんな寄席の中頃に出てくるなんて。
驚いてプログラムを見ても「小さん」の名前はない。
何かのついでで、弟子の様子でも見に来て、
それじゃ、そのついでに、ということで、高座に上がったのだろうか。
こんなことがあるから、寄席は楽しいのだ。
寄席の中席の持ち時間は短いので、
このときはちょっとした小話をやっただけ。
「それじゃ終わりに、そばでも食べてけえりましょう。」
そういって、得意のそばを食べる仕草。
それがまあ、うまいのなんのって。
割り箸を割るしぐさから、薬味を入れる動き、
そして、本当に美味しそうにそばを手繰っていくのだ。
う〜ン、こっちも思わずそばを食べたくなっちまう。
場内割れんばかりの拍手に、にこっと笑い、
最後は、まんじゅうを食べる仕草。
これが,美味そうに、幸せそうに食べるんだなぁ。
この人の「まんじゅう恐い」なんて話を、
聞いてみたいものだった。
ということで、美味しそうにみえるそばの食べ方のお話。
夏目漱石の「我輩は猫である」の中で、
そばの食べ方談義がある。
夏目さん、野口さんと変わってから、
ちょっとご無沙汰だからね。
最近は、北里さんになってしまった。(千円札の話)
「この長い奴へツユを三分一つけて、
一口に飲んでしまうんだね。
噛んじゃいけない。
噛んじゃそばの味がなくなる。
つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ」
これは猫の主人の友人である迷亭先生の言葉。
もっともこの先生、
いつも言葉が先走りしている感がある。
事実、そう言った後も、
そばを飲み込んで、ワサビがきいたのか、
涙を浮かべて苦しそうな顔をしている。
明治時代に作られたという有名な小話。
ある江戸っ子が、そばを喰いながら能書きを垂れる。
「そばを食うときは、そばの先に、
ほんの少しツユを付けてたぐり込む。
そうしなければ、そばの香りがわからねえ。
ツユの中で、ざぶざぶかき回して食ったら、そばが泣くよ。」
いつもそう言って、そばをたぐり込んでいたのだ。
この江戸っ子、重い病気にかかってしまった。
今際(いまわ)の際に、友人に言い残した言葉。
「一度でいいから、
そばにツユをたっぷりと付けて食べたかった。」
どうも江戸っ子という奴は、見栄っ張りでいけない。
粋(いき)を気取って無理をするところがあるようだ。
背伸びをして、そばはこうして喰うものだ、
なんて粋がって、無理にの見込んでみたり、
ツユの付け方に文句をつけてみたりする。
そばなんか、自分の好きなように食べればいいじゃないか。
まさにその通り。
でもね、そばをおいしく食べるには、
それなりの作法があるようだ。
よく言われるのは、
すでに書いたように、
「汁には、そばを少しだけつける。」
「歯に当てずに喉で噛む。」
「品のいい音をたてる。」
などなど。
でもね、そんなことは、
些細なことだと私は思う。
もっと、大切なことがあると思う。
皆さんは、ほかの人が、食事をしている時、
どんな時に、「おいしそう」と感じるだろうか。
しかめっ面をして食べている人だろうか。
うつむいて食べている人だろうか。
それとも、笑いながら食べている人だろうか。
本当にそばを好きな人は、
見ていても、惚れ惚れするぐらい、
おいしそうにそばをお食べになる。
自分の好きなものを食べられて、
幸せそうな雰囲気が、
全身から溢れ出ている。
そんな人の食べ方は、
けっして、汁のつけ方がどうの、
噛まずに飲み込めとかではない。
ほかの人が見ても、自然と、
おいしそうに見えるように、食べられているのだ。
そう、そばを食べる時の、一番大切なことは、
おいしいと思って食べること。
「、、、すべき。」とか
「、、、じゃなきゃいけない。」ではなく、
「そばを、食べられて、幸せだなあ。」
と思うこと。
そうだと私は思っている。
さて、最初に出てきた「小さん」師匠。
あるテレビ番組に出演してそばを食べた。
師匠の食べ方は、まさに通の食べ方。
そばを噛まずに、すっと喉に落としていく。
高座で実演した食べ方そのものだったそうだ。
それを見たアナウンサーが「小さん」に聞いた。
「師匠、やっぱり、そばは、
噛まずに食べたほうがおいしいですか。」
それを聞いた「小さん」。
にやりと笑ってこう答えたと言う。
「そりゃあ、噛んだほうが、うめぇですよ。」
う〜〜ん。
粋なお人だったんだな。