「探究」と「教科学習」は別物?「探究」と「学力向上」は別物?先生たちが抱く、問いの数々
学校現場で生徒の探究学習に伴走している先生たちが語り合うイベント「ナレッジカフェ」が7月末、キックオフしました。生徒の学びに携わる中で得た知見を持ち寄るとともに、自分の中に新たな発見を生むのが目的です。
初回のテーマは「これからの“教科の授業”を考える」。
「総合的な探究・総合の時間」の実践を深める一方で、「ずっとこのままでいいのか?」「教科にも探究のエッセンスを入れられないか?」というモヤモヤした悩みや事例を、ゲストの先生3人と共有し、議論しました。
そもそも探究は「万能」なのか
石川萌(きざす)先生(東海大学付属大阪仰星高等学校中等部・高等学校、英語):教員4年目で、自分が楽しく授業をできていないと、生徒も楽しくないと思っています。「ゲーム」が大好きなので、授業にもゲームの要素を組み込めないか考えていますが、なかなか通常の授業では実現できていませんでした。
でも先日、夏休みに先生たちが好きな授業を開講できる「自由講座」があり、そこで「ポケモン」と絡めた内容で英語の授業をやりました。
ポケモンの日本語名と英語名には、それぞれの特徴をよく捉えた違いや共通点があるので、ポケモンの名前をきっかけに英語に興味を持ってくれるコンテンツを用意しました。
英語で架空のモンスターの名前を考える中で、日頃の生活にも学びがあることを生徒たちは発見していました。
吉澤 陽(あきら)先生(聖心学園中等教育学校、社会):もともと進学指導に熱心な教員でしたが、7〜8年前、この子たちが社会に出たら、勉強だけしかできない子になってしまうのではないかと思うようになって探究学習に興味を持ち始めました。
「探究」は、あくまで生徒に「こうなってほしい」という教育を実現するツールでしかありません。自ら課題を発見し解決できる力を身につけてほしいと思っています。テクノロジーとデータを活用しながら、社会に価値を生み出せる人間になってほしいと思っています。
また、教科学習に探究を導入する際は「どういう学びを得てほしいのか」があってこそだと考えています。生徒に、いかに考えさせるか、問いを見つけさせるかを大切にしています。授業では「今疑問に思っていることない?」と生徒に問いかけたり、出た疑問には「じゃあ、教科書から見つけていこう」などと声をかけたりしています。
ただ「問い」から本当に探究的な学びが始まるのか、それともやはり「やらせられている」感があるのかは、まだ自分でも分かりません。「社会」という教科であるがゆえに、知識を身につけてもらおうと講義型の授業になる場面もあり、迷いもあります。
延沢 恵理子先生(山形県立東桜学館中学校・高等学校、国語):宮城県の海沿いの町の出身です。震災で思い出の土地を失って「なくならないものとは何か」「人の心の中に残さ れたものだけなのではないか」と考えるようになり、そこから「生徒たちの心の中に何かを 残す教師になりたい」という気持ちが強くなり、自分を成長させるためにさまざまな勉強会に参加するようになりました。
「探究」と「教科」はそもそも別物なのか?と考えています。授業で教科の面白さを伝えられるのなら、そもそも「総合的な探究の時間」は必要だったのでしょうか。また、探究と教科は 「5:5」なのか、そもそも探究は「万能」なのか、そんなことを考えています。
探究の価値は学びのエンジンを得られること、一人一人が腹落ちしながら進んでいけることだと思います。思考を深める型や、グロースマインドセットも学べるのも魅力です。
ただ、一方で、好奇心だけでは受験を越えられない、とも思います。学びには継続性や粘り強い思考が必要です。その話をすると「受験は古い」 と言われたり、受験を意識した授業をすると「それより大事なことがある」と言われたりすることもある。「なぜ受験ってこんなに『悪者』扱いなのだろう」と違和感も感じます。
どの時代、どの文化にも大人になるための「通過儀礼」がある。子供たちが頑張って背伸び して乗り越える場であるはずなのに、それをさせずに「いいんだよ、素敵だね」と、寄り添うだけの方向性には違和感もあります。「嫌われても、分からせる愛し方」だってありま す。
「探究は正義なのか」という疑問もあります。キラキラして見えるし、生徒も生き生きして いる。だから教師としてはうれしい。最近の教育界のムードとして「まだそっち(探究)に行けないのは、遅れててダメな人」という空気や「早くこっちにおいで」と言われている感じに違和感を感じます。
私はPBLなど探究系の研修にも受験の研修にも両方参加していますが、それぞれのコミュニティの顔ぶれが固定化されているとも感じています。「探究」と「学力向上」で分かれてしまっている んじゃないかと、モヤモヤするんですね。
途中、参加者たちから質問が寄せられました。その一つが「“探究”という言葉にスポットが当たっているが、先生方にとって探究学習とは何なのか」。
延沢先生:子供たちの主体性を重視しながら、学校の枠に縛られずに、考えを展開させてあげられるような場を与えることだと思います。
石川先生:「探究」を突き詰めると、立てた問いや仮説を検証して結論を導き出す……という堅苦しいものになってしまいます。だからまずは、日常の疑問や興味関心にアンテナを張って調べてみることが大切だと思います。アンテナを張った先に「面白いな、調べよう」という気持ちが湧き、それを深める中で知識になり、探究になっていくと思います。
吉澤先生:「将来、社会で価値を生み出すための力を養う時間」ですかね。生徒が自分の小さな気づきや興味関心から、社会課題を見つけ解決しようとすることで価値が生まれるのが探究ではないか、と思います。そこは教科で学んだことがベースになっているとも思います。
中学の先生からは、学校で学ぶ意義について意見が寄せられました。生徒から「先生から教わった内容は覚えてないが、先生のギャグやエピソードは覚えている」と言われたそうで「学校で学ぶことの意義は、学んだ内容が大人になってから蘇ってくることなのか」と。3人の先生からはどんな反応があったのでしょうか。
石川先生:高校生の時の授業は何も覚えてません(笑)。先生に申し訳ないです。今、自分が教壇に立っているというのを考えると、何かしら影響はあったと思うのですが。そういうこともあって、子供達の心に残る授業って何なんだろうとも思います。
延沢先生:教師としての自分は忘れられたとしても、自分が教えた内容を覚えている、その 子自身の言葉になっているのって、ものすごく嬉しいですよね。自分の「存在」が生徒の意識に残らなくても「言葉」や「教えたこと」として誰かの一部になっていくという仕事なのかなと思っています。石川先生は覚えていないとおっしゃってましたが、実は忘れているだけで、当時の先生から教わった言葉が、いま石川先生を形作っていると思いますよ。
吉澤先生:高校生の頃、理系に進みたかったんですが、挫折して文系に進みました。大学で歴史の道に進もうと思ったのは、高校の歴史の先生の影響だったと思います。当時は講義型の授業がメインだったので、生徒は黙って授業を受けていたのですが、その先生が江戸時代の刑罰の話をすごく嬉しそうに話していたのを覚えています。「最もひどい拷問は塩分の入っていない食事を与えることや!」「磔っていうのは、両脇から槍を…」なんて勢いづいて話す姿、今もすごく覚えています。
この後、登壇者の先生方が学校現場で「これからやってみたいこと」を語りました。講義型の授業で、生徒が自分で考えるための仕掛けを作るか、その工夫や考え方を披露しました。
石川先生:夏休み明けからやってみたい授業があります。例えば真ん中に助動詞の「can」だけが書かれた紙を配り、私はファシリテート役で、生徒が自分で考えるなかで文法を学びとれないだろうか、と。
というのも、英文法の指導はどうしても講義型になりやすいこともあって、生徒が「つまらない」と感じやすいのです。どうしたら生徒自身が気づきを得て理解につながるだろうか、と考えてたのですが、なかなかうまくいかなくて。
教員側が「与える」だけではなく、子供たちが自分で答えを掴み取れる授業ができたらと思っています。
吉澤先生:学校でVRを導入して欲しいです。VRの中で「織田信長」になりきる……ということができたら、多分効果的に学べると思います。以前、織田信長がSNSで自分を発信するとしたらどんな風に発信しますか?という探究事例があって、面白そうだ、と思ったんです。
それからテクノロジーを使って市民の力で課題を解決する団体にも所属しているんですが、ITの基本的な知識を学ぶ講座を受けてチャレンジを重ねたいと思っています。サイト作りなど、自分でできることを増やし、生徒たちに「これからはIT」と言う前に、まずは自分からやってみようと思っています。
延沢先生:やりたいことはすぐ動いてしまうので、これからやろうとキープしているものはないです。今年度は受験を控えた高3を担当しているのもあって、ゆっくりじっくり時間をかけた探究に私も生徒も集中できる状況ではありませんが、プチPBL的な活動は仕掛けています。
野球応援に合わせ、そろいのTシャツを作る費用等を捻出し、チアや応援団など、生徒に自由に企画実行してもらいました。 お金と場があれば自由に動いてやってくれると生徒を信頼していますし、受験勉強の中でも、自分が学んでいたことを生かして探究していくと思っています。
小中高一貫校の先生からは「小学生の中学生の高校の探究学習はそれぞれ同じものなのか、それとも全く違うのか、また、接続はあるのか」という質問があがりました。
延沢先生:私は中高一貫の教員ですが、高校の勤務が長く、中学には3年しかいません。その時の経験も踏まえて考えると、小、中、高の探究は発達段階ごとの違いを十分考えて行うべきものではないかと思います。
例えば小学生はまず、楽しく読書する経験を積まないと自ら本を手に取るようになりませんが、高校生になると、必要な本も手に取れるようになっていく。そうした年代ごとの特性に応じて、学びの形や深め方も変える必要があるのではないでしょうか。
また、中高、高大への接続を緩やかにしすぎると子供が育たないのではないかと思います。接続や連続をなめらかにするより、あえて非連続にすることも意識しないと、成長の場を奪うことになりかねないのではないでしょうか。
吉澤:どんな力を身につけてもらいたいのか、どういう人に育ってほしいのかという目的は変えず、でも年代に応じて手段や難易度、コンテンツは変えるべきだと思います。
私の学校も中高一貫校ですが、まず中学生は地元奈良に焦点を当て「地域」を題材とした探究に取り組みます。その後高校生になると、そのフィールドを「世界」に広げ、高校2年生ではクエストエデュケーションを活用し、リアルな「社会」とつながる取り組みへと発展させていきます。
石川:お2人と同様、本質は変えず、手段は異なるのだとおもいます。私の学校も中高一貫なので、それぞれの取り組みがあって、中学ではSDGsをひとつのツールとして、どうしたら地元をよくしていけるのかを考える。高校ではより発展した内容になり、学校が独自に作った探究の教科書を使っています。
最後に、宮北純宏・大阪営業所所長からのあいさつがありました。
宮北:みなさん、違いを楽しめましたか?違いばかりですよね。答えは自分の中にあるけれど、対話を通じて気づくこともありますよね。「探究と教科の位置付けについて、いろんな方の話を聞いて、自分の考えが整理されてきた」という参加者のコメントが印象的でした。
やらなければならない業務も多い中、自分一人で変化を起こすのは不安ですし、勇気も湧かないこともあると思います。だからこそこういう場を大事にしたいですよね。ぜひ、2回目も、まわりの先生方にもお声がけをしてご参加ください。仲間が増えたらできることも増えていくと思います。
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