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偽名みたいな名前を授かった半生を振り返ってみる ~就職編その3~(4/5)

フーモア入社前までの話はこの記事で終わります!
では前回の続きから。

人事教育時代

定時で帰れるといえば一般職! という感じで、最初は自力で探してましたが、箸にも棒にもかからなかったので派遣会社に登録します。
紹介予定派遣で入れる会社を紹介してもらい、確か最初の会社で決まったと思います。

面接官(部署長)も気に入ってくれ、自分もその業務内容に対して共感を持てたこと、そしてお互いに「この人と働きたい」と思ったことでトントン拍子に入社が決まりました。

その会社は光通信グループのモバイル通信事業を行う、わかりやすく言うと携帯ショップを運営している会社でした。
今はもうその業界の情報をちゃんとキャッチアップしていないので詳しくないですが、当時は全国で最も多くSBショップを運営している会社で、日本一の総販売台数の会社でした。(まあそりゃそうか)

銀座のそれ(これは直営店)

私より上の世代は光通信というと超絶ブラックで、阿漕な商売をしている会社だという印象の方もいるでしょう。でもこの頃は自浄作用によってホワイト化を目指していたので、むしろブラックに対して敏感な会社でした。
ただ、グループ会社だけでも4桁に及ぶ超大企業において、そう簡単なことではなかったですが…
当時の社長が独自に教育部を立ち上げようとしたことも旧態依然の本体に対するアンチテーゼでもあったと思います。

で、話を戻すと、私が勤めることになったのは社長の鶴の一声で立ち上がった新部署「人財教育課」で、従業員の基礎能力底上げやエンゲージメント向上を目的とし、入社時研修や階層別研修の計画から実施までを行うというものでした。
私を含めて3人の部署で、私のほかは面接をしてくれた女性課長と、人事から選任された女性のみで構成されていましたが、確かほどなくして人事の女性は退職された気がします。

とにかくこの課長が面接で話してくれた「この会社を良くしたい」「従業員を笑顔にしたい」という気持ちがストレートに伝わってきて、迷いなく入社を決めました。(いや、前職から月給は10万円以上下がるので、正直ちょっとだけ迷いはしました…)

初めて経験する一般職は驚きの連続でした。
前職が特殊だったのもありますが、前職では仕事中にゲームしてるのって当たり前で、当時は編集部内で集まってよく狩り(MHP2G)に行ったりしてました。※他社参考資料名目
取引先含め、初めて会う人とのアイスブレイクは必ず「好きなゲーム(アニメや漫画も可)は?」だったのに、仕事中にエンタメの話をしない職場にまず驚きです。

3000時間は遊んだ

そしてパワポ文化の会社だったので、ここでOfficeソフトをひたすらにマスターします。ショートカットキーとプレゼンテーション資料とEXCELのネスト関数ならそんじょそこらの人には負けない自信があります。

全社総会などで各事業部の発表をする際に使用する資料をひとつ作ったら複数の事業部長から直接「うちの事業部の資料も作ってほしい」とオファーがありました。
最終的にkeynoteを使える唯一の事業部長がいる部署以外、全事業部の発表資料を担当したことがあります。
経営方針発表会の資料を社長から依頼されたこともありますし、当時の営業が使用するプレゼンテーション資料のフォーマットはほぼすべて自分が整えたものです。

そして何と言っても直接部門との軋轢
間接部門がアナウンスするやってほしいこと、例えば社内アンケートとか数字の回収なんかは絶対に期限通りに集まりません。
そりゃそうです。自分も直接部門にいたときはそれを煩わしいとすら思ってましたから。

でも間接部門からアナウンスする内容は、従業員の労働環境を良くするためであったり、従業員自身を守るため、または法令遵守のためのものなので、やってもらわなきゃ困るんです。
その重要性を知れたのは、直接部門に戻った今でも間接部門との関係性が良い組織づくりに一役買ってると思ってます。

研修企画や講師をやるにあたっては、過去培ってきた一般常識やビジネスマナーを再確認することができました。自身にとっては初のスーツでの勤務というのも新鮮でしたね。教育部という立場からクールビズの時期もかっちりネクタイを締め、いついかなる時も他者の視線に晒される、言うなれば教師や芸能人のような振る舞いを求められ、当然自身に課していました。
現職で鈴木のことを模範的なちゃんとした人間として見ている人は、この頃身につけたカムフラージュスキルに騙されてます

教育部で喫煙所に集まってるだけ

話は変わり、プライベートでも転機が訪れます。
詳細は省きますが、離婚しました
親権は自分にあるので、有責ではないということだけご理解いただければ幸いです。働きながら育児という、昨今ではめずらしくもなくなってきましたが、シングルで子育てされている方は本当にすごいなと…。

このとき迅速に動いてくれたのが課長でした。
在宅ワーク制度という、当時あってないようなものだった制度を整備して私のために適用できるようにしてくれました。
定期的に娘含めて遊びに連れて行ってくれたのも、本当に感謝してもしきれません。一般職への転職は本当に大変で、自分は課長に拾ってもらったと思ってるので、この件もあわせて一生頭が上がりません。

しかしながら教育部は、入社2年目くらいに大きく方針転換します。
社内教育ではなく、参加代理店のCS(顧客満足度)とES(従業員満足度)向上がミッションとして与えられ、対象範囲は1,200名から一気に数万人規模に膨れ上がります。

この頃から仕事へのモチベーションはゼロになります。課長にもその旨は明確に伝えていました。1on1でも「求人でこの業務が書かれていたら俺はこの会社に入ってません」と言いました。
ただしパフォーマンスが下がったとは思ってません。
それは課長への恩を返すためだけに在籍していたので、職務で返そうと思っていたことによるものです。

今なお続く「どんな業務でもモチベーションがパフォーマンスに影響しない」というスタンスはこの頃に形成されたのではないかと思います。
あと、仕事にやりたいやりたくないとかないので、合わないでパフォーマンスが下がるならお互い不幸なのでさっさと去ればいいと思ってます。

人事教育で得たスキル・学んだこと

  • Officeソフト

  • 企画、人事考課、研修講師

  • 間接部門と直接部門の関係性

  • 組織と人の関係性

  • ブラック企業

  • 様々なマネジメント

専門学校時代

なんだかんだ人事教育は7年やってました。
元々やりたくて一般職をやっているのではなく、家庭環境的にやむなくやっていた部分があるので、娘が中学にあがったタイミングでもう一度エンタメに挑戦します。

SQEXでお世話になった先輩から声をかけていただき、エンタメ系専門学校で出版社を立ち上げるという業務にあたります。

ここに関しては在籍期間が短いので大幅に端折りますが、めっちゃくちゃ大変でした。企画して編集して営業して部決して、みたいなことを全部ひとりでやるわけです。そして売れない。5,000部刷ることすら震えます。

我々の給与や出版の原資はすべて、在籍している学生たちの学納金からきています。その学校は「産学共同」を掲げ、我々が編集する刊行物には必ず在校生または卒業生が関わる(当然適切なギャラも支払う)ので、刊行物自体が必ずしも利益を上げなくても出版することに意味があるんですが、さすがに赤字を計上し続けることや在庫を抱え続けることに耐えられませんでした。

結局自分の企画も出しはしましたが、入社段階で進んでいない企画が目の前にあったので、それらを半年で発売まで進行してすっぱり辞めました。

半年で出した書籍の一部

専門学校で学んだこと

  • 学募(学生募集)

  • 出版社やろうとしたらめちゃくちゃ大変

  • ヒューマンネットワーク

おわり!

正確にはこのあと光通信Grpにちょっとだけ戻りますが、MVNO全盛期のタイミングで自社ブランドが連結を外れ、自分もそちらに転籍。さらにグループ内の統廃合の波に飲まれてぐっちゃぐちゃだったので転職活動をすることになります。こうしてようやくフーモアにたどり着きますが、フーモア編は次回からとなります。

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