Note 112: 「少年の名はジルベール」も面白かった!(プロローグ)

前回の「Note111:「一度きりの大泉の話」を読んだ」は、ぼくにしてはそこそこ読まれた。
本気でNoteをやってる人にしたら、ゴミみたいな反響ではあるけれども、うれしかった。
だが、逆に、責任も生じるので不安になってきた。
ぼくは、自分のNoteなんか誰も読んでいないだろうと決めて掛かっていて、バーッと適当に書いている。
だけど、多くの人が関心を持っている話題、そして、萩尾望都さんと竹宮恵子さんという個人について書いたブログであるから、適当に書いてはいけないなと思った。
(当たり前だ!>自分)
一番の心残りは、竹宮恵子さんが書いた「少年の名はジルベール」という本が、「一度きりの……」に負けず劣らず面白い本だったということを伝えきれなかったことだ。

※以下、くだくだしく書かないが、「一度きりの……」および「少年の名は……」の盛大なネタバレを含むので、これらの本に興味がある方はまず本に当たることをおすすめします。

残念なマネージャー氏のブログ記事

ぼくが「一度きりの……」(以下「萩尾本」と略記)と、「少年の名は……」(以下「竹宮本」と略記)を読んだのと前後して、竹宮さんの妹さんであって、マネージャーを務められている方のブログが書かれた(以下「妹ブログ」と略記)。

現在妹ブログは削除されている。

削除されて良かったと思う。
そして、過去のぼくが、妹ブログを読んだだけで竹宮さんの心中を推し量ってしまって、そのまま竹宮本を読まずに終わらなくてよかったとつくづく思った。
それぐらい竹宮本は面白かった。
そして、それぐらい妹ブログはひどかったのである。

削除されてしまったので妹ブログの内容を記憶に頼って再構成するが、ぼくなんかの記憶は全然アテにならないのでそのつもりで読んでください。
大体こういう内容だった。

- 萩尾本は萩尾さんの誤解に基づいている
- 「大泉サロン」について、竹宮サイドにも竹宮・萩尾対談の企画が打診されたが、それは数回だけである
- 同じく、ドラマ化の話を持ちかけられたのもわずかな回数である
- よって、萩尾さんが仕事に支障をきたすほど迷惑しているとは、知るよしもなかった
- 竹宮サイドから、「萩尾さんさえOKならいいですよ」と返答したことはない
- もし、そのように伝わっているなら心外である
- 盗作問題について、竹宮さんが妹さんに「萩尾さんが私に『あなたがいつまでも書かないから私が書いた』と言った」と言った
- 私(妹さん)は、姉である竹宮さんを信じる

ということである。

あんまり詳しくない、赤の他人について、ヤイヤイ言うのは控えたいが、とりあえず、これは、ひどいと思った。

最初の方は仕方がない。「大泉サロン」や「花の24年組」(これらの言い方、くくり方を萩尾さんは好んでいない)についての企画が、萩尾さんが困惑するほど繰り返し打診されたのか、そして、「萩尾さんがOKなら」と竹宮さんサイドが言ったかどうかは、われわれ読者は知るよしもない。

竹宮さんにとっては、本を書きたいほど美しい思い出である以上、その話題を振られることは、嫌なことではないであろう。
萩尾さんにとっては、封印したい過去であり、名前を書くのも辛い話題であるので、受け止めに差があって当然だ。
対談やドラマ化が、竹宮サイドからの提案ではなかったことも、分からないから、妹ブログを信ずるしかない。

問題は盗作問題についてだ。

 盗作問題について、竹宮さんが妹さんに「萩尾さんが私に『あなたがいつまでも書かないから私が書いた』と言った」と言った

つまり、妹ブログでは、萩尾さんが竹宮さんと増山法恵さんのアイディアを盗作した、そしてそれを萩尾さんは隠していると主張している。
そう読むしかない。
そして「私は姉の言葉を信じる」と書いている。
盗作の存在を主張し、萩尾本最大の主張を否定しているのである。

萩尾本の実証性と網羅性

萩尾さんが、書きたくない本を書いた第一の理由は、盗作疑惑を完全に、徹底的に払拭することだろう。
そのために、萩尾本では、盗作疑惑が作家をいかに傷つけるかを、多くのページを割いて、激しい筆致で書いている。

そして、竹宮さんと増山さんが、増山さんのマンションに萩尾さんを呼び出して行った詰問のことを、萩尾さんが家に帰ってからクロッキーブックに書き付けていること、そしてそのページは折りたたんでクロッキーブックに挟んでいる(捨ててはいない)こと、そして当時から現在までのクロッキーブックをすべて保管していること、そしてもし萩尾さんが誰かに正面切って盗作疑惑を掛けられたなら、名誉毀損の裁判でもなんでも起こすし、そのときは書き溜めたクロッキーブックを証拠にする、とさえ書いている。

そして、竹宮さんからもらった手紙も、捨てたとは書いていない。
もし捨てていたら(たぶん燃やすと思うが)それも書いたと思う。

このように、一連の盗作疑惑を不当に掛けられたことを、徹底的に、網羅的に、実証的に書いている。
そして、おそらく、物証がある。

それを「萩尾さんは誤解している」「姉からこう聞いた」「私は姉を信ずる」と一言書けば否定できるだろうか。
あまりにも言葉の重さに差がありすぎる。

萩尾本については、竹宮さんの元アシスタントで、竹宮さんのファンクラブを組織した村田順子さんもブログを書かれている。
これは読んでいない。
こちらも削除されているのである。

こういう、いろんな身内の人が、ちょっとずつブログを書いては、少し経って削除するという、ヒット&アウェイ方式って、どうなんだろう。。
「作戦」ではないと思うけど、もし「作戦」だったら稚拙すぎる。
誰も得しないと思う。

村田さんのブログ(削除の経緯)には、竹宮さんが一方的に悪者になるのは忍びなかったという意味のことが書かれている。
じっさい、萩尾本を読んで、竹宮さんをネット攻撃するファンが多いらしい。
これは竹宮さんにとってだけでなく、萩尾さんにとっても辛いことであるので、やめましょう。

でも、妹さんのブログも、村田さんのブログも、それを食い止めるどころか、火に油を注ぐ結果になってしまっている。

「トーマの心臓」と「風と木の詩」

あらためて、萩尾さんの「11月のギムナジウム」「小鳥の巣」「トーマの心臓」が、まだ未発表であった「風と木の詩」の盗作であったかどうかについて考える。

まず、作品のテーマについては、萩尾さんは、私は少年愛とか、少年愛の美学というものが分からないと繰り返し書いている。
少年同志が友愛や、未分化な慕わしい気持ちを持つことについては描いているが、少年愛というものがある、それはいいものだという、増山さん発信の(そして大泉で大流行していた)理念にはついていけなかったということらしい。

ぼくは「トーマの心臓」が発表された当時は(実はコミックスで後追いで読んだのだが)、実は、少年愛的な作品だと思っていた。
「風と木の詩」と、「トーマの心臓」と、山岸涼子さんの「日出処の天子」と、そして麻夜峰央さんの「パタリロ」や青池保子さんの「イブの息子たち」、木原敏江さんの「摩利と新吾」などは、アプローチや芸術性はまったく違うけれども、美少年がくっつくのを女子がキャーキャーいうという、まあそういう機能を持った作品だと思っていたのだ。

しかし、萩尾本を読んだ上であらためて考えると、「少年愛の美学」(=良きもの)という考え方、捉え方を、萩尾さんはたしかにしてはいないと思った。
(「少年愛の美学」という言葉自体は稲垣足穂の本から来ているが、萩尾さんはこの本について、「面白いシュールなファンタジーだと思ったけど、それだけでした」と書いている。一方の竹宮・増山さんは足穂の本にも心酔し、研究したようだ)

ちなみに、足穂の「少年愛の美学」はぼくも読みかけたが、初手からスカトロ系のシモネタ的な話で胸焼けして、読み進むには至らなかった。あの詩情あふれる(陳腐な表現でスミマセン)「一千一秒物語」と同じ作者の作品とは思えない。

だから「少年愛の美学」とは何か、ぼくにもよく分からない。

思ったのは、ちょっと政治的な話になるけど、かりに現実にいる男性が好きな男性に、今の用語法で言ういわゆる腐女子の人が、「ステキ!BLなのね!」「あなたは受け?攻め?」などと言ったら、さすがに常識を疑われてもしょうがないだろう。現実と「美学」にはこのような乖離がある。

もちろん、芸術作品やエンタメの中で、「少年愛の美学」「死の美学」「破滅の美学」「緊縛の美学」あるいは「殺人の美学」などを着想し、追求することはあるし、それぞれ重要なテーマであろう。
ただ、萩尾さんはそういう描き方はしていない。
そこは内心の問題であるから、論じてもしょうがないし、竹宮・増山さんもそこを問題にしたわけではないだろう。

竹宮・増山さんが盗作であると判断したのは以下のような表面上のモチーフである。

- 男子の寄宿舎が舞台になっている
- 学校に温室がある
- 学校のそばを川が流れている

で、これを根拠に、萩尾さんが盗作した(竹宮さんに見せてもらった「風と木の詩」の元になったクロッキーブックを盗用した)というのは、無理があると思う。
というのは、(萩尾さんが故郷の福岡を思って描いたという)川についてはともかく寄宿舎、そして温室については、増山さんに誘われて、萩尾さんと竹宮さんとの3人で、吉祥寺の映画館で見たという、「悲しみの天使(寄宿舎)」という映画に登場するからだ。

萩尾さんはこの映画から着想を得たという。萩尾本によれば、少年が自殺してしまう映画の悲しい結末を見て、どうやったら自殺しないで済むんだろう、どうすれば感情の行き違いが防げたのだろう、と考えたそうだ。
そう言われて「トーマの心臓」を読むと、すごく良く分かる。
これは「少年愛の美学」とは別のものだ。

くだらないたとえ話をすると、もし「大岡越前」の作者が「遠山の金さん」の作者に、「名奉行と、悪代官と、悪徳商人と、無辜の庶民が出てくるから、パクリだ」と言ったらどうなるだろうか。
(どっちの作品成立が先か、知らないが)
「その批判は無理がある」と言わざるを得ないだろう。
奉行を軸に話を描く以上、そういう設定にならざるを得ないし、完成した作品は2つの違うものだ。

「スタートレック」の作者が「スターウォーズ」の作者に「宇宙船と宇宙人とワープが出てくるからパクリだ」とは言わないんじゃないだろうか。
推理小説のトリックや歌謡曲のメロディを剽窃するのとは、話が違う。
(スターウォーズの一部は、サバチーニという人の小説「スカラムーシュ」のモロパクリらしいけど。。)

我知らず共闘していた?

妹ブログに出てくる「あなたがいつまでも描かないから」という萩尾さんが言ったとされる言葉は、ぼくは萩尾さんは言っていないと思う。
萩尾本を読めば、言うわけがないと思う。
しかしながら、その言葉に共感するものがないでもない。
竹宮さんが、青春時代への後悔の中で、自分の心が生み出した言葉を、萩尾さんが言ったように思い込んだのかもしれない……。
というのは、竹宮さんの不運は、より早く「風と木の詩」を発表しなかったことだと思うからだ。

萩尾本にも書かれているが、少年同士の交情を描くことにおいて、「ポーの一族」「トーマの心臓」は一番乗りであった。
そして、マンガ界に一大センセーションを巻き起こした。

「ポーの一族」もまた、別冊少女コミック副編集長の山本順也さんに、何度も掲載を断られた。
萩尾本には「長編も、連載も、まだ早い」と言われたとあるが、少女が主人公ではなく、山本さんが少女と少年の恋愛が軸でもないマンガに価値を見いだせなかったこともあるのではないか。
1976年のオッサンに理解しろという方が無理があると思う。

そこで、萩尾さんは、「ポーの一族」のエピソードを小分けにして、短編連作として山本さんに提出しつづけた。
(そのうちの1つが「小鳥の巣」)
そして根負けした山本さんが、連載を許したという。
だから「ポーの一族」は、最初の方が短編連作で、途中からおもむろに長編化するという特異な構成を持っているのである。

萩尾さんはこのときの別コミにおける立場を「巻末作家」と自嘲していて、巻末の空いたページを埋める役割、と言っている。
竹宮さんは萩尾さんのそのようなあり方を、自由に描ける理想的な立場だ、と、尊敬を込めて羨望している。
いっぽう萩尾本には、竹宮さんはなにしろ三社が取り合った人気作家であるから自分に嫉妬するはずはない、と書いている。
まあお互いに隣の芝生かもしれないし、そう書かざるを得ないのかもしれない。

ちょうど同じ頃、竹宮さんは、「風と木の詩」のネームを数多くの編集者に打診しては、断られていた。
そして、週刊少女コミックのMさん(毛利和夫さん)に、意外なアドバイスを言われた。
Mさんは、自分にはこういう話は分からないし、今のままではこのネームを通すのは無理だけど、通す方法はある、別の作品で1位を取ればいい、1位の作家のネームは、絶対に通る、言ったのである。
竹宮本の感想はあとでまとめて書くけれども(まだ書くのかよ!)このMさんのプロフェッショナルなアドバイスが、竹宮本で最も感動したところだ。
プロが、プロと出会う。
これが大人の仕事の醍醐味である。

そうやって成立した作品が「ファラオの墓」である。

3年間(1974〜1976)、コミックス8巻に及ぶ連載で、人気があったらしい。
未読だが、Wikipediaであらすじを見ると、史劇であり、架空戦記であり、相当な意欲作だ。
ただ、その長編連載の間に、萩尾さんは「ポーの一族」を発表し、その人気を受けて、「トーマの心臓」を発表する。

萩尾本によれば、竹宮・増山さんによる萩尾さんの詰問と両者の決別があったのは、「小鳥の巣」を描いた1973年の2月のことだそうだ。
「トーマの心臓」の開始は1974年。
「風と木の詩」の開始は1976年。

萩尾さんは、竹宮・増山さんが萩尾さんを詰問して食い止めたかったものは、自分たちが「風と木の詩」によって巻き起こすはずだった「少女漫画革命」を邪魔される(先を越される)ことであろう、と、はっきり書いてしまっている。
これも推測であると断ってはいるけれど、萩尾本のことであるから、おそらく絶対の自信を持って書いている。

ここで思うのだが、萩尾さんも、竹宮さんも、少女が出てこない少女マンガ、男女が恋愛しない少女マンガというものを編集者に受け取らせるために、別々に並行して、実は、共闘していたとは言えないだろうか。
ふたりで勝ち取った権利ではないだろうか。
(萩尾さんは、少年を描く理由について「自由に動かせるから」という意味のことを萩尾本に書いている。少女を主人公にすると、女の子は女の子らしくなければならない、というくびきから逃れられないからだと。それは萩尾さん自身が両親との長い戦いから受けたトラウマとも関係があるだろう)

でも、萩尾さんの作品が、わずかに先に世に出た。
それは萩尾さんが、短編も長編も描ける作家で、短編であれば別コミの巻末にするっと掲載される立場であったからだろう。
いっぽうの竹宮さんはあくまで長編の週刊連載にこだわり、Mさんのアドバイスによって3年間を「ファラオの墓」に費やして地歩を固めた。
長編型と短編型という才能の傾向と戦略の違いであり、どちらがいいという問題ではない。

ちなみに、萩尾さんも「トーマの心臓」の連載中に、編集者と「トーマの心臓」が終わったら少女コミックの読者である少女がちゃんと楽しめる明るいマンガを描きます」と約束して、打って変わったラブコメディ「この娘(こ)売ります!」を描いた。「描きたい作品を描くために売るための作品を描いた」竹宮さんと、「描きたい作品を描き続ける条件として売るための作品を描くと約束した」萩尾さんと、順序が入れ替わっているだけで、どっちも苦労しているんだなー。

木原敏江さんがタイトルを付けてくれたというこの作品は、萩尾さん唯一のラブコメ長編であるとWikipediaに書かれていて、たしかにコテコテの少女マンガといった感じの、萩尾さんにしては異色作だが、男装の麗人プランタンと、女装する美少年クラビーが出てくるのがちょっと面白い。

「アメリカン・パイ」のリューも、最初男の子に間違えられるのが印象的だし、「11人いる!」も両性体のフロルがヒロインである。

少女マンガは、性別のくびきから逃れて冒険したいという女の子の欲求を満たすため、性別転換というテーマが多いのだろうか。そもそも「リボンの騎士」という大先輩がいたな!

どちらの作品も残った

「トーマの心臓」も「風と木の詩」に話を戻す。
今の目から見ると、ふたつとも、まったく別の作品、不朽の名作として、残った。
ぼくはいわゆる「少年愛」が苦手で、「風と木の詩」は読んでいないが、魔夜峰央さんと竹宮恵子さんの対談が「花とゆめ」の別冊か何かに載っていたのを妙に鮮明に覚えている。
魔夜さんが、冗談めかしてはいたけど「「風と木の詩」を読むときは、なまじっかな気持ちでは読めない、一日がかりで、「風と木の詩」の世界にどっぷり浸るつもりで読まないと」「「風と木の詩」を読んだ後には、何も出来ない」「「風と木の詩」を読むときは、変なものは食べられない。クロワッサンとブラックコーヒーだけにしないと」みたいなことを言っていた気がする。
大好きな「パタリロ」の魔夜さんにここまで言わせるなんてスゴイナーと思ったのだ。
(完全に記憶に頼って書いているのでウソかもしれません)

「風と木の詩」が発表されたときも、「ポーの一族」に負けず劣らずの大センセーションだったと思う。
週刊連載であるし、あの内容である。
パッとページをめくっただけで、今までの少女マンガとは全然違うと分かる。
「トーマの心臓」の二番煎じなんて言う人は、いなかったんじゃないか。
(まあネットがなかったから、誰がどこで何を言っていたか分からないが)
とりあえず周囲の女子はキャアキャア言っていた。
そして、少しも下卑ていず、スタイリッシュな絵で、堂々と描いているのはカッコ良かった。

今にして思えば、少女マンガ革命を起こしたのが誰だったか、萩尾さんと竹宮さんとどっちかなんて、言う人いないと思う。
(強いて言えば水野英子さんの「ファイヤー!」(1969年)が少女マンガ革命だったと思う。こちらは現役世代ではないけど。。)

それに、何十年も経ってしまえば、作品は残るけど現象は消えてしまう。

アメリカとフランスとどっちが民主主義の元祖か。
ロシアと中国とどっちが共産主義の元祖か。
ブラック・ミュージックがMTVで普通に流れるようになったのはマイケル・ジャクソンとプリンスとどっちの功績か。
あんまり気にする人はいないと思うのである。

ただ、萩尾さんはどうしても「自分が大泉サロンの一員だった」「我々は花の24年組だ」「私と竹宮さんと、増山さんの薫陶を受けた作家たちが少女マンガ革命を起こしたのだ」という物語に組み込まれてしまうのは耐えられなかった。
そして、盗作疑惑を完全に払拭する必要があった。
それは個人の名誉に関わる問題であって、萩尾さんに対して軽々しく「作品は残るからいいじゃないですか」なんて言うことは許されないだろう。

とりあえず「風と木の詩」も「トーマの心臓」も偉大な作品として永久に残る。
そして盗作はなかった。

それを踏まえて、もう1冊のたまらなく面白い本、「少年の名はジルベール」を読んでいきたいと思う。
(ようやく本題かよ!!!)

(この回終わり)

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Chihiro Fukazawa (深沢 千尋)
会社員兼業ライターの深沢千尋です。いろいろ綴っていきますのでよろしくです。FaceBook、Twitterもやってますのでからんでください。 https://www.amazon.co.jp/l/B005CI82FA