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信徒が“公認されて”聖書朗読する意味

教皇フランシスコが今年1月に自発教令「スピリトゥス・ドミニ」を出して、信徒の朗読奉仕を正式に認めるべく、教会法を改訂しました。その意味をあらためて考える記事が出ています。

わたしは典礼の授業を取ったことすらないので、このあたり、もっとも苦手な分野ですが、第2バチカン公会議(1962-65)の「典礼改革」で骨となる部分のようです。

自発教令の意味

この自発協令で、信徒でも、女性でも、ミサ中の朗読ができるようになったというのが売りでした。しかしこれが出た時のみんなの反応は「なんで今さら」というもの。もうすでに、女性は朗読したり、侍者したりが、ほとんどの教会で当たり前だからです。
しかしこの記事はそのあたり丁寧に説明。おそらく実践で行われていることを教会法上で規定することの重要性を確認しているようです。公会議前のミサは司祭1人でするもの、公会議後は信徒の「能動的参加」が唱えられ、各自が自分のスキルを会衆のために用いる、という教会像に変わったという。確かに、公会議の教会観の、典礼的表れという意味が重要なのでしょう。
個人的には、典礼的意義に鈍感なところがあるので、この記事を読んでも「ちょっと大仰な捉え方」という感が残ります。
が、教皇フランシスコによる、全員参加の「シノダリティ」イデオロギーを考えるに、5月の信仰教育奉仕職の公認と並び、ともかく「働き手」を増やすことに邁進してるのかなと思います。
相変わらず司祭中心で行くのか(行けるのか)、または最大限コミットする人を増やしていくのか(このあたりがシノダリティの本質っぽい)、勝負の分かれ目と思います。
「奉仕職は人々に触れる」と記事は強調しています。朗読は単なる「仕事」ではなく、「奉仕職」として信徒に任される時、その信徒は奉仕者として、会衆に「触れる」ことになる。イエスの奉仕職をともに担うことになる、わけですね。

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