司牧「計画」というもの
「宗教は、ビジネスとは違う」「行政は、ビジネスとは違う」といったことばを口実に、筋道立てた法人運営・経営をせず、現状維持バイアスの波に飲まれっぱなしで、何も新しいことはしたくない宗教者・行政職員は多いのでは?
人間の集団が活動するには、その「経営計画」は必須で、行き当たりばったりでは、宗教活動も、行政運営も、利用者ニーズに応えられないでしょう(↑Gerd AltmannによるPixabayからの画像)。
お寺さんも、県知事も、そうした旧弊打破して、改善改革の道を歩んでいる実例も多々あります(↓)。
さて、ひるがえって、カトリック教会。
「使徒的計画は、教会内や、より広い社会の中で流行語となっていますが、…」で始まる以下の記事(欧米の教会では、経営計画をたてて推進するのが普通なんだ、と少し感心)は、宗教活動における計画の重要性や、そこへの「参加」の問題、その質的違いを強調しています。「カミ・ホトケのご意思に身をゆだねて、ヒトはそれを邪魔すべきでない」と言わないわけです。
「変革のための使徒的計画」チビリタ・カトリカ誌、2024年5月20日
まず、二つの疑問が示されます。それは、①「聖霊に頼る状況において、計画を立てることは意味があるのか」と、②「感情的側面や内的知恵や直感に十分な注意が払われていない技術主義的アプローチの限界」です。言い換えれば、①は、計画など立てず、宗教者はその瞬間の霊的なインスピレーションにゆだねるべき、というもの。②は、ビジネス計画を立てるように、完全機械的に推進するだけでは駄目だということ。これら二つの極端を排して、「使徒的計画」は行われるべきと言います。
①に対する反論は明確です。「イエスの行動は、彼が計画をもっていたことを示しています。この任務のために、イエスは十二使徒を招集し、彼らを養成し、彼らの将来を思い描かれました」。イエスが計画に沿って宣教活動をしたのだから、それに従う弟子であるわたしたちも、計画をたて、戦略を練るべきです。
②については、「わたしたちの導きは聖霊(一人ひとりに働く霊的なひらめきとでもいいますか)であり、その聖霊が私たちの計画を狂わせ、方向転換させるのです。わたしたちには聖霊が必要です。聖霊はテーブルを蹴って、それを捨て、再び始めるのです」という教皇フランシスコのことばを強調します。教会活動の目標は神の夢の実現であり、そのために神の望みを「識別」する(見分ける)必要があるわけです。これを「共同体として」行うことに、教会らしさがあるわけです。このやり方の七つのステップが紹介されています。
共同体や組織の現状を見る。
その共同体や組織は、自分たちの恵まれた歴史に目を向ける。
自分たちの存在確認となる重要文書に目を通す。
専門家による調査情報に基づき、時のしるしを探求する。
現代に向けての神の呼びかけを知る。
現実的目標とターゲットを設定する。
成果をモニターする仕組みを設定する。
特権的グループだけが決定するのではない/部門分裂の回避/生活と宣教のバランス
この決定のプロセスでは、「取締役会」のような「特権的な」グループだけが決めるのではなく、最初から人々を巻き込み、霊的会話や識別を全員で進めることが「シノドス的な」方法、と確認します。<共同決定・共同実施・共同責任>の実践です。使徒的計画では、「何をすべきか」の前に、「誰が」を語るべき、とも述べます。さらに、教会内の各部門ごとに、「タコツボ化」することも危惧しています。
また、生活と宣教がバランスのとれたものでなければならないとも強調します。活動主義に陥り、「燃え尽き症候群」に苦しむキリスト者が多くいます。柔軟性のある、喜びをもった計画でなければなりません。
脆さ、失敗、罪深さ/イエスとの不断のつながり
聖霊主導の計画というプロセスは、脆さと不確実性がつきものです。計画を実行に移す段階に入っても、行動しながらも、観想的になる時間をもち、ともに識別しながら、厳しい選びを継続する必要があると述べます。「終末的な(神の時に、神の国が完成するという)」視点をもつことで失敗を恐れず、罪や悪の問題に誠実に直面し、謙遜になって神の恵みを願うことを忘れてはなりません。そこにはイエスへの信頼がなければ、現実の困難さに飲み込まれるでしょう。
教皇フランシスコがsquilibrio(バランスを崩す、不安定)ということばを好むことを紹介しています。「キリスト者として、また教会指導者として、つねに、バランスを崩している状態を感じる要素がある」と述べます。バランスが崩れていることは不安・不快なことですが、そこには「恵まれた弱さ」があるというのです。「聖霊がわたしたちに挑戦し、わたしたちを変え、わたしたちが手放すのを助け、新しい方向へと導き、すべてをコントロールしたいという人間らしい欲求や、自分が主導権を握っているという幻想を手放すよう促している時」だというのです。バランスが崩れているときこそ新たな息吹が生み出されるという、変化へのいざないといえるでしょう。
刷新とインパクト/互いを必要とする共同体
「刷新」こそが計画立案の中心的理由です。それは「歴史における神の活動の道具になりたいという願い」から来るものなのです。「使徒的計画とは、つねに識別された方法で、ささやかではあるけれども非常に現実的な方法で、わたしたちの働きが変化をもたらすことができるようにしようとする方法」であって、「み国が来ますように」という祈りを現実にするための努力です。「聖霊に導かれ、祈りに満ちた方法で行われるのであれば、計画は変化をもたらし、新しい社会、新しい文明(確かにつねに脆いものではありますが)を築き上げる助けとなりうる」のです。
そこに向かうために、限界のある人間は、弱さの中でともに歩むことで、互いを必要とします。こうして歩むことは、「無関心とシニシズムの文化の中でいやしとなる貢献」となります。「構造は使命に従う」という原理にしたがって、「わたしたちの兄弟姉妹の多くが、イエス・キリストとの友情から生まれる力、光、慰めもなく、彼らを支える信仰の共同体もなく、人生の意味も目標もなく生きているという事実」に、一義的に目を向ける<構造・組織>を目指すよう、教皇は呼びかけます。「誤った安心感を与える構造の中に…閉じこもったままでいる一方で、わたしたちの戸口では人々が飢えている」と教皇は警告します。
まとめと指針
あらためて、使徒的計画の意義は次のようです。「人々が『イエス・キリストとの友情から生まれる力、光、慰め』を見いだし、『彼らを支える信仰の共同体』を見いだし、『人生の意味と目標』を見いだすのを助けるよう……それが、わたしたちが計画を立てる究極の動機でなければなりません」。「聖霊の導きを招きながら計画を立てるなら、驚きと、新しい意味と神の国の価値への転換を生み出すことができる」と訴えます。
所見
比較的長い記事ですが、カトリック教会が近年取り組んでいる世界会議の、「2021―24年シノドス」との関連で、共同決定・共同実施・共同責任の実践のための「計画づくり」について、具体的に要点整理した興味深い記事と思います。記事にある指針に沿って、これまでやってきた実践の見直し、これからやろうとしている実践の方向性、どうして実践に向かわないかの原因など、さまざま、検討、振り返りができるのではないかと思います。まずは教会内部の問題でありますが、「迷惑施設」建設など、行政のレベルでも、住民参加の決定・実施のために役に立つ方法論になるかも、しれません。