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【青空文庫を読む】田中英光「オリンポスの果実」

これからいちいち断らないつもりだが私はこれからnoteで本のレビュー、感想文を他にも書いていくと思うがネタバレはしないつもりだ。どういうつもりで書くかというと、私自身が感じたことをそのまま書くというのが基本だが、読む人がいることを意識して種々の加工をするだろう。まずは推敲をいちおうする。noteに投稿を始めて1カ月ぐらい経って思うことは、あまり厳密な推敲はしてなくて、自分で読み直して、てにをはとかおかしいなと思うことがあって、でもあまりに多くていちいち修正できてないぐらいだが、いちおうざっと推敲をする。それからレビューの場合はネタバレを、よほど必要がない限りはしない。する場合は冒頭で「この記事はネタバレが含まれる」って明記をします。読む人に「この作品は面白そうだなあ。読んでみようかなあ」と思ってもらうことを目標に書こうと思う。

前置きは以上。

「オリンポスの果実」は田中 英光(1913-1949)が1940年に発表した作品。
田中は1932年のロスアンゼルスオリンピックにボート競技の選手として出場。そこで知り合った走高跳の日本人女子選手をヒロインにして、彼女との淡い交流と想いを綴った小説。

この週末に読んだ、というか読み上げアプリにかけて聴いて読んだ、というのか、最初から最後までずっと聴いた。ずっといろんな作業とか雑用をしながら聴くので、途中あんまり聴いてなかったところがあった場合はそこまで戻ってまた読み上げさせるという感じで。
読み上げアプリのヘビーユーザーになって1年以上たって思うことは、小説を読み上げアプリで読むのは予想以上にいいなあと思う。自分で読むほうが自分のペースで読めるから良さそうなものだが、そうでもなくて。読み上げアプリが読んでいて、こちらが聴いてなくてもどんどん先を読んでいくと、「あれ、どうしてこんな展開になってるの?」と分からなくなることがしばしば起こるが、これがまたいいんだ。違った角度から作品が見れるというか、新鮮な感じがする。私は若い頃に読んだ小説をまた読み返すということをすることがあるけど、小説って、適度に分からないぐらいのほうが感動が大きい。あまりこういうことを言う人はいないと思うが新説として唱えたいぐらいだ。昔ある小説を読んで深く揺り動かされたことがある。10年以上たって読み返して、「あ、ラストシーンってこういうことだったのか」って分かった。でもそのラストシーンで登場人物の意図がよく分からなかった昔のほうが圧倒的な感動を覚えて、もっとはっきりと分かるようになった後ではさめた気持ちで読んでいた。それは若い頃のほうが感受性が高くて年取って感受性が弱くなったってことじゃないの?と自分でも考えたが、読み上げアプリを使うようになってから、「いや、それだけじゃないぞ」って思うようになった。これは私としては幅広く色んな方々に検討してもらえたらと思う。
 それと、作業とか雑用をしながら聴くというと、思いがけず作品との一体感をしばしば体験することになる。
 昔、渡辺昇一の文章の中で、昔の女性が賢かったのは、たとえば針仕事とかを夜ごとするが、そういう時に男があまり経験しないような内省の時間がとれるからだ、みたいな内容だったと思うが、家事をすることの大事さ、みたいなことを言っていた。その文章を読んだのはかなり前だが、ずっとそれを思い出し続けている。雑用をしながら読み上げアプリを聴いてると、たぶんそれに通じるような体験をよくする。もはや「聴いてる」という意識もなくなって、音声が言ってる内容がダイレクトに頭に入ってくるというか、作品と一体になってるというか。もうこのこと自体が快感の体験で、だから机に座りながら本を読んでいる時よりも同じ作品でも1.5倍ぐらい面白みが増すんじゃないかと思うぐらい。

この作品は1932年ロサンゼルスオリンピックが舞台になっている。戦前の、まだアメリカとの関係が悪くなかった頃の、そして日本がまだ戦争に巻き込まれて疲弊してない頃の様子それ自体が興味深い。日本は1941年の真珠湾攻撃から日米戦争が始まり1945年の敗戦を経て国がとてつもなく疲弊した。戦後に生きる我々はだから、戦前はずっと貧しかったというふうに思いがちだが、この本を読むと、意外と豊かだったんだなあ、今と通じるところもあるなあ、って思わされる。違うところもものすごくあるけど。先輩に暴力振るわれたり、日記を勝手に見られてその内容を大声で言われてからかわれたり。ガキかよ、と思うのだが、こういうのは今なら小中学生ならあるけど、大学生ではたぶんほぼ考えられないんじゃないか。こういうところに社会の進歩っていうのがあるのかなって考えさせられたり。

作者の田中英光は、この作品の中で語られているところでは、小さい頃から文学少年だったが、体が大きかったのでスポーツをするよう周囲から強くすすめられた結果オリンピックにまで出場することになったという。田中のアイデンティティとしてはスポーツの世界の人というより文学の世界に住む人間だと思っていたようだ。この作品はオリンピックで一緒だった女子選手へ呼びかける形で綴られていくが、ただのスポーツ選手が書くという不器用さはなく、最初から読者を引き込むようなエピソードから入り、その緊張の糸を途切れさせず最後まで読ませるうまさがある。

田中は同人誌に発表した文章が太宰治の目に留まり、以後太宰に師事したという。そしてこの作品は最初「杏の実」という題名だったけれど太宰が「オリンポスの果実」にするように勧め、内容も太宰のもとで数度にわたって修正されたという。
 そりゃ太宰が見たんだからうまいはずだ。ダイヤモンドの原石が最高の職人によって彫琢された。完成した作品は太宰を通じて「文学界」に発表された。評判は非常によかった。
私は田中の他の作品をまったく読んでないので太宰抜きの田中がどんな作品を書くのか見当もつかない。しかしこの作品のみずみずしさというか青臭く鼻につく感じは太宰の作品と共通するものがある。私は太宰は基本好きじゃないけれど小説技法は職人技だ。しかしそれが人工的な冷たい感じにならずに、まるで素人のような青臭さを残している。田中がもともと太宰と共通する素質を持っていたのか、それとも太宰の影響でそうなったのか。太宰が無名の田中の作品を褒めたのもやっぱ共通した素質に共鳴したからではないか。

1948年6月13日、太宰治が自殺すると田中は非常にショックを受け、睡眠薬に依存するようになる。翌1949年11月3日に太宰の墓前で自殺を図り同日死去。享年36歳。
この作品を読むと、主人公はたびたび色んなものを失くしたり盗まれたり、不注意でトラブルを起したり、不器用でどこかアンバランスな人という感じがする。そもそも、既に他の女性と結婚した後で、10年前のオリンピックの時に好きだった人に全編ラブレターみたいな形式の作品を発表するというのも、現実世界で大丈夫かなあ、と思いながら私は読んだ。ボート競技の先輩たちからの暴力を含むいじめみたいな経験も、たぶん登場人物の名前は変えてあるだろうが、書いてあって、各方面から顰蹙を買ったんじゃないかなあ、と他人事ながら過去の事ながら、心配しながら読んだ。そういうところも作者の、アンバランスさというか不器用さというか、トラブルを招くような体質があったんじゃないかと思うし、そういうところは太宰と共通してるような気もする。

しかしいい小説で大好きになった。異性を好きになった当初どんな気持ちになるか、どんなことが起こるかということが、網羅というのではないかもしれないけれど詳しく具体的に出てきて、「恋愛初期に起こること辞典」みたいなところがあると思いながら楽しく読んだ。
読後、ネットで検索したら、やっぱこの作品が発表されたことでヒロインのモデルになったとされる人には迷惑だった、みたいなことが書かれているのを見た。

でも、男と女の仲が、男からの働きかけで始まるのが基本だと思うので、そうすると男はアクションを起す役だから、相手に受け入れられなかった時は常にピエロやから。だから男は笑い者になることを覚悟しなくてはいけないと私は思う。不格好で、恥ずかしい存在であることに耐えることに慣れなければ男なんてやっていけないのではないか。昔の知り合いが俺のことを思い出すたびに笑ってるんだろう、それでええわ、生き恥さらしながら生きてます、っていう気持ちを持たなきゃ長年生きていけまへんわ。
って思うのでこういう女性を思ってヒリヒリする話を、現実で各方面に顰蹙を買いながらもこういう話を発表したというのは、そこだけは「よくやった」って思う。それをやったからこの人は死後も人々に記憶されているのだから。

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