グローバリズム幻想論 グローバリズムは存在しない!!
ロシアのマクドナルド撤退
最近ふと、2022年ウクライナ戦争開戦直後にロシアからマクドナルドが撤退したということを思い出した。なんのきっかけかはわからない。けれども、突然頭をよぎってきた。
あの頃はまだ自分は高校3年生で受験勉強ばかりをしていて、正直この出来事についてあまり考えていなかった。
けれども今の自分があの出来事を考えてみると非常に面白いものが見えてくる。
マクドナルドの撤退に関してwikipediaにまとまった記事がある。概要を知らない人はそちらを読んでほしい。
ロシアのマクドナルド撤退により、ロシアからマクドナルドが完全に消えたかというとそうではない。撤退発表後わずか一ヶ月で、フクースナ・イ・トーチカというハンバーガーチェーンが開店した(以後フクースナと略称で呼ぶ)
フクースナの様子はNHKの記事でよくまとめられている。
フクースナはマクドナルドをそのまま居抜きし、厨房設備、スタッフ、レシピも全て同じ、そして原材料のサプライチェーンも引き継いだために、全く同じハンバーガーが提供できるという。
ここで私は、ある違和感に気がついた。アメリカのマクドナルド本社は、このロシアのマクドナルドに対して何の機能も果たしてなかったことに。
つまり、ロシアのマクドナルドは、アメリカのマクドナルド本社が何もしていなくても、自立して存在できるようになっていた。
マクドナルドはよく、グローバリズムの象徴として扱われる。
ロシアのマクドナルドは、いわば産み落とされた子供のように自立し、自分の足で歩くようになった。確かに始まりはアメリカなのかもしれない。けれども、その親は何一つ子供に対して関与できなくなった。
そこで私は強く感じた。
我々がグローバリズムと呼んでいるものは本当に存在するのか。
ロシアのマクドナルドを支えていたのは極めてローカルな、国内のサプライチェーンや国内工場でしかなかった。アメリカのマクドナルドは、あくまでノウハウやメニューを伝えただけで、それ以外は何一つ役目を果たさない。きっとたまにアメリカから視察に行く程度の関係性でしかなかったのだろう。
今回、やや扇状的なタイトルを付けた。グローバリズムは幻想であるという主張は、かなりラディカルであるけれど有意義な議論だと思う
グローバリズム幻想論
私が主張したいグローバリズム幻想論は何も国際化や多国籍企業を否定したいつもりはない。現に、世界の産業にGAFAが入り込んでいるのは事実だ。
グローバリズムというと、我々は世界のすべてがつながる運動であり、そして世界が一つになるという動きだと言われている。
私が主張したいのは、グローバリズムという現象は極めて地域的で、国家的な現象でしかないということだ。つまり全世界で起きているように見えるグローバリズムは幻想に過ぎないということだ。画一的なグローバリズムは存在しないのだ。
グローカリズム(グローバル+ローカル)
グローカリズムという言葉をご存知だろうか。グローバリズムとローカリズムを組み合わせた言葉でグローバリズムが地域によってカスタマイズされていることだ。
例えば、マクドナルドなら全世界同じメニューかと言われるとそうではなく、日本ならテリヤキチキンバーガーや、サムライバーガー、ごはんバーガーなど極めて日本的なものと組み合わせている。
グローカリズムという言葉は、私が言っていることと極めて似ているように聞こえるかもしれない。グローバリズムがローカルに合わせているという、グローカリズムの思想には、絶対的な普遍のグローバリズムという概念がある。つまりは、偉い学者先生(グローバリズム)が大衆(ローカル)にわかりやすいように簡単な言葉に置き換えているような構図がある。
けれど私は言いたいのだ、あなたが思っているグローバリズムは一体どこに存在しているのか?
絶対的な普遍のグローバリズムはどこに存在しているのだろうか?
従うべき学者先生はどこにいるのだろうか?
遠藤周作「沈黙」からみるグローバリズム
遠藤周作の「沈黙」ではキリシタン信仰について面白い考察をしている。この小説は、江戸時代のキリシタン弾圧をもとにしている。主人公の宣教師ロドリゴは、キリスト教弾圧の中、日本での信仰を絶やさないために日本に向かう。結局ロドリゴは捕まるのだが、それ以前に潜り込んで消息不明の先輩宣教師フェレイラが現れる。フェレイラは幕府の側につき、棄教していた。そしてフェレイラは彼にこう語りかけるのだ。
ここでの指摘はかなり興味深い。キリシタンが信じていたのは、イエスではなく、彼等なりの土着信仰であった。
さらにフェレイラは続ける。
フェレイラは、日本のキリスト教信仰は屈折して元のキリスト教とは違うものに成り果てていたと指摘する。当時のキリスタンは大日如来とデウスを発音が近いからと取り違えていた。
どうして、キリスト教の日本での屈折を描いた「沈黙」を取り上げたかというと、グローバリズムも似たような側面があると考えるからだ。
つまり、グローバリズムは各地域で曲解され屈折され伝わっているのだ。かつてあったかもしれないグローバリズムの概念は、各地域で根付く上で地域の中に取り込まれていった。
確かにグローバリズムはアメリカや西洋が布教していった概念であった。そして多くの国で輸入し、正しく伝わったと思っていた。でもそれは誤解なのだ。グローバリズムは地域にとって都合の良い形に変質し、元のオリジナルとは違う形に、ナショナル(国家)と組み合わさったキメラとなった。
ここまで読んでもらえれば、何を持って私がグローバリズムは幻想だと言っているのかある程度理解できたのではないだろうか。
グローバリズムの源泉 ある種の陰謀論
よく、グローバリズムは西洋的と言われるだろう。特にアメリカがその性質が強い。けれども、アメリカが果たしてグローバリズムの源泉かというと私は疑問に思う。
グローバリズムに宗教性はない。そこにあるのはフォードから連なる効率主義と、画一化のイデオロギーである。
第二次世界大戦後、産業においてアメリカは大きな地位を占めた。そして、彼等は自身の製品の素晴らしさを伝えるために、資本主義の精神を輸出し、それがさもコスモポリタニズム的であると打ち出した。
かなり陰謀論的なことを言うのなら、グローバリズムはアメリカによる世界征服の理念である。自身の製品が売れるように、グローバリズムを推し進めた。
けれども、世界各国においてその受容のされ方は異なった。けれども彼等はグローバリズムの勝利を信じたかった。日本でキリスト教が屈折して伝わったように、グローバリズムが各国で屈折している事実を彼等は信じたくなかった。
実際、そのイデオロギーでうまく行っていた20世紀はそれで構わなかった。けれども21世紀に入り、世界は徐々にナショナリズムへと移行していった。それは江戸幕府がキリスト教を拒んだように、グローバリズムという宗教を拒んだのだ。そしてそもそも彼等は元からグローバリズムなんか信じておらず、ただ土着の宗教を信じていただけだった。
近年のナショナリズム運動は、ある種グローバリズムの反動であるけれど、それは違うのだ。ただ元々信じていた土着の宗教(ナショナリズム)が表面化しただけなのである。
あと一つ問いかけるのなら、土着のものが全て消え去り、まさにグローバリズムに染まった国家、地域というものは存在しただろうか?
補給戦 マーチン・ファン・クレフェルト
マーチン・ファン・クレフェルトによって書かれた「補給戦」という軍事学研究の書籍がある。クレフェルトは従来の戦争研究において補給の概念が欠如していると問題提起を呼びかけた。彼は「補給戦」において、三十年戦争やナポレオン戦争や二度の世界大戦を補給の概念で分析している。
グローバリズムにおいても、ある種「補給」の概念が欠如している。グローバリズムはどこまでも無制限に世界が繋がるものだと思われている。たしかに情報通信分野ならそうだろう。けれども、物が伴うグローバリズムはどうだろうか。
これは先ほどのロシアのマクドナルドの例が良い例だ。ロシアのマクドナルドは、ほとんどすべて国内で賄われていた。
グローバリズムの象徴である多国籍企業は、大概現地に工場や支部をつくり、本部からある種独立して機能するように作る。
そしてグローバリズムを支えるのは、国内のインフラ設備だ。道路だったり、輸送だったり、電気だったり、グローバリズムは地域に依存している。そして従業員は、地域の住民である。
グローバリズムは、現地で起きている現象を見ればものすごくローカルなのだ。ただ企業ブランドだけが、本社との紐帯、繋がりでしかない。もはや多国籍企業の各国支部は独立した存在なのである。
多国籍企業の補給は、あくまで現地でしか行っていない。現地で完結する仕組みなのである。
これは極めて当たり前の話だ。だけれど、グローバリズムを考える際、我々は全体性ばかりに注目してしまう。
繰り返そう、グローバリズムは極めてローカルな現象なのだ。
創造の共同体 ベネディクト・アンダーソン
ベネディクト・アンダーソンの「創造の共同体」はその名前の通り、国家というものは共同幻想なのではないかと指摘する。主にナショナリズム論として有名な著作である。
彼は、ナショナリズムは同一言語や教育による共同体意識、国民意識によって醸成させられたものという。
グローバリズムもある種同じなのだ。世界の人々が繋がっているという意識が、海外製品の輸入や、新聞ニュースなどで生まれた。そしてその結果グローバリズムという幻想が生まれた。
よく語られるのだがグローバリズム論とナショナリズム論はかなり密接に関わっている。ナショナリズムが国家を信じる思想であるなら、グローバリズムは世界を信じる思想なのである。
多摩論
正直、人の生活する世界は非常に狭い。確かに原理上は世界のどこにでも行ける世界になっただろう。でも我々はそんなに世界を、国家を行き来するだろうか。人々の生活圏は非常に狭い。通学、通勤する世界、電車で少し寄り道する世界が大半の人々にとっての世界なのだ。
以前、私は「多摩という呪縛」という多摩についてのnoteを書いた。
ここで示したのは、多摩という地域は町田、立川、八王子などの大きな町があれば、生活はそれで完結してしまうことだ。すぐ近くに都心があっても、多摩に住む人々は、わざわざ都心に行くことはない。時間的に近いところにも、あえて行かない限りは訪れることはないのだ。けれども東京への帰属意識をどこかで持っている。
その人にとっての世界は極めて狭い。国家への想像力と、世界への想像力、それはほとんどの人間にとっては同一だ。
同じく果てしない広い世界だ。そこに解像度の違いはほとんど無いだろう。内と外、それの違いしか分からないだろう。
つまりは我々がグローバリズムを想定するとき、その解像度はナショナリズムと変わらない。グローバリズムを考えるとき、漠然とした世界を思い描きながら、我々の生活で感じられるグローバリズムっぽい何かを感じている。それが果たして純粋なグローバリズムなのだろうか?
キットカットから見るナショナリズムの錯誤
以前Twitterでキットカットが、日本の商品なのか、海外の商品なのかアンケートを取った。
21票しか取れなかったけれど、半分以上が日本の製品だと思っている。多分世間でもこれぐらいの認知度だろう。
けれどもキットカットは、元はイギリスで生まれたものを輸入して、最終的にはネスレが製造している製品である。
そこにはネスレのイメージ戦略等や、抹茶味など日本らしい味の展開があるので勘違いしてしまっているのだろう。
けれどこのキットカット現象には、ナショナリズムの強さを感じる。つまり、ナショナリズムはグローバリズムを乗っ取ってしまうのだ。それは先述した遠藤周作「沈黙」でも似たような現象が現れる。
日本論でよく言われるが、日本は海外の文化を自分の文化にしてしまいがちだ。例えばクリスマスは、もはやキリスト教の祝祭ではなくなっている。ナポリタンも、ナポリと言っておきながら、戦後の喫茶店などで広まった料理だ。台湾まぜそばは、台湾では食べられていない。
まさにナショナリズムがグローバリズムを食らっている例だろう。
ジャパニーズグローバリズム
そして日本ではグローバリズムは西欧のものであると思われがちだろう。けれど、我々日本も西欧にとってはグローバリズムの象徴だったのはお忘れだろうか。
戦後、高度経済成長により日本は多くの物を輸出するようになった。日本車や、ソニーのウォークマン、海外への輸出が多すぎて貿易摩擦にまで繋がった。文化でも、ニューヨークで一風堂や丸亀製麺が食べられたり、寿司も輸出されたりしている。
我々も、グローバリズムの一つなのだ。日本に住む我々にとってその視点は欠けがちだ。
さらにEU諸国にとっては中国のEV車の覇権が問題になり、排除しようと躍起になっているだろう。西欧にとって、グローバリズムの対象はアジアなのだ。グローバリズムによってアジアの文化が輸出され侵食される危機を感じているはずだ。
今まで抽象的な議論をしてきたけれど、具体例を見れば分かりやすいだろう。
国によって侵食してくるグローバリズム自体が異なる。この前提自体で、グローバリズムはかなり危うい概念になるだろう。
世界の画一化を要請するグローバリズムは、もはや崩れてくる。グローバリズムの現象自体、国家によって異なるのだから、画一的なグローバリズムは存在しない。
共通の教義が存在しない、分裂している宗教なんて、もはや同一の宗教とは言えないだろう。
ボードリヤールのシュミレーション
ボードリヤールが提唱したシュミレーションという概念がある。シュミレーションとはオリジナルなき複製、コピーを指す。
そのシュミレーションという概念はグローバリズムにも適応できると思う。
グローバリズムは原典なんて存在していない。けれどもそれがさも存在しているかのように、オリジナルが存在しないまま世界各地に複製、コピーされていった。そしてそれが際限なくコピーされた結果、劣化したものが伝わり、グローバリズムは伝言ゲームのように曲解してどんどん伝わっていく。
グローバリズムはある種、口承文芸的な側面があるのだろう。
まとめ
以上のようにグローバリズムの幻想性、ナショナリズム性を解説していった。
今回の私の主張としてまとめると以下の通りだ。
・グローバリズムは極めてローカルな現象である。
・グローバリズムは各地域で解釈が異なる。
・グローバリズムに統一的な価値観は存在しない。
正直、選んだ題材がかなり恣意的だったし、グローバリズム論、ナショナリズム論の先行研究を十分に踏まえていない議論であったと思う。
けれども、この疑問提起は現代社会を考える上で面白い視座を与えてくれるものだと思っている。
批判も大歓迎だ。
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