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大学生に蔓延る反知性主義 楽単信仰の原因


大学生になって思ったこと ー岡本太郎を知らない女の子、情報リテラシーのないグループワークー

 大学生になって思ったのが、学問についての話をする人が本当にいないということだ。まあ、自分も学問をガチでやっているかと言われると少し困るけれど、きちんと興味関心があって、それについて基礎的なことはある程度語れる自信はある。
 けれども、大学生の学問的水準が酷いなと思うことが今までの大学生生活の中で非常に多いように思えた。
 例えば、知り合った文学部の女の子は岡本太郎を知らなかった。え、岡本太郎知らないの? ってかなり衝撃を受けた。これが普通の大学ならあり得たのかなと思うけれど、早稲田大学の学生でこれかーってなった。
 岡本太郎についての専門的知識を求めているわけではない。1970年の大阪万博の「太陽の塔」や、渋谷に設置されているパブリックアート「明日の神話」ぐらいは知っていて欲しいなと思った。
 これはあくまでもプライベートな会話の場面で、そういう学生もいるのかなあ程度に感じたのだが、ある講義で結構うーんと思うことがあった。
 その講義ではグループワークで調べ事をしていたのだけれど、ある班の発表の内容がひどかった。専門的な文献をろくに引用することなく、まとめサイト的な情報ソースの怪しいサイトを引用して、毒にも薬にもならない空虚な発表をしていた。
 え、こんな雑な発表でいいの? って心の底から思ってしまった。
 そういった細かいエピソードは多々ある。
 自分は学問を愛する身としては、人とはそれなりに学問の話をしたいのだ。その人の興味関心がどんなものなのか、そういった話。
 そこで思ったのは大学生に蔓延る反知性主義だ。頭をよく見せるのが格好悪い、効率よく単位さえ手に入ればそれで良いコスパ主義、そのような思想が強く根付いているように思えた。
 今回は、その大学生の反知性主義についての分析をしたいと思う。主に対象とするのは文系学生だ。彼らが最も反知性主義に染まっている気がする。
 私は、その反知性主義的について以下の点で語ってききたい。

  • 学生側の問題 

  • 大学、教員側の問題

 そして、このうち二点目の「大学、教員側の問題」が非常に大きいと思う。
 私は、単に学生が怠惰に、愚かになったからという一言でこの問題を言い切ることは不十分だと思う。学生を取り巻く外部的な要素、それこそがこの問題の要因である。

学生の問題

 学生は学問のために大学に来たわけではない。
 何のために来たか、自明であるが四年間のモラトリアム、そして就活に有利になるから。
 後者も大きく影響しているけれど、まずは前者について考えておこう。
 四年間のモラトリアム、大学生にとっては学問を究めることよりも関心が強いだろう。大学1年生の一番の課題は、どんな授業を取るかよりどのサークルに入るか。
 そのモラトリアムに意味がないとは言わない。その間に何かを成す人もいるだろう。けれども、だいたいの大学生はその4年間を享楽に費やす。バイト、飲み会、恋愛、サークル。
 対人関係の構築を学ぶ良い機会だとは思うけれど、それがメインになっては大学の意味があるのかと思ってしまう。
 もちろん、花の大学生活を送れていない著者の僻みだと思われるかもしれない。否定しない。だから学問というところに固執してる面も否定しない。
 基本的には、大半の学生にとって享楽の日々を過ごすためだから、授業なんてまともに受けない。単位さえもらえれば、それでいい。だから最低限、出席の無い授業はサボって、レポートはChatGPTに書かせたりして、コスパを求めるのだ。
 大学生にとって講義は、自身の成長の場ではなく効率よく単位を取るためのものだ。
 だからこそ大学情報誌を元に(早稲田ならマイルストーン)を参考に、興味関心に関係なく楽単ばかりを取っていく。ある授業ではレポート1行出せば単位が来る授業があったとか………。去年聞いた話だが。
 それに大学が就活予備校になっている側面も否定しない。就活はどんどん早くなって、基本的に3年のサマーインターンは行かなくてはならない雰囲気がある。もっと早くから説明会など行っている人もいるだろう。

大学、教員側の問題 

 正直、学生の問題についてはある程度実感を持って感じてる人が多いだろう。
 どうして、そのような学生を生んでしまうのか。それは学生側の意欲の問題よりも大学の問題もある。そこには構造的な問題が横たわっている。

授業評価アンケート

 正直、大学側も楽単なんか作らずにちゃんと学問を学ぶための授業を作ればいい。それに、適当な情報リテラシーしか持たない生徒がいるのならもっと指導すればいい。
 まず、楽単が存在してしまう理由、それは授業評価アンケートだ。
 大学生は、その学期が終わったあとに授業についてのアンケートを受けさせられる。このアンケートは、おそらくその授業が良い授業なのか、学生の満足度を測るためのベンチマークとして大学経営陣が授業評価に利用しているのだろう。
 まぁアンケートをすること自体悪くないけれど、そのアンケートで評価の良い授業はどんな授業か。楽単な授業である。
 簡単に単位をくれたり、授業内容が平易で分かりやすい、学問的には初歩的なもののほうが評価が高くなるだろう。
 きちんと難しい内容に踏み込もうとした授業は単位が取るのが難しいことが多いので落ちた学生はそのアンケートに不満的な内容が書かれる。
 さらには受講希望者の数は楽単かどうかに影響する。簡単な話だ、楽単の噂が広まってる授業には多くの受講希望者が集まる。経営者としては人気講座は残したくなるだろう。
 だからちゃんと難しい内容に踏み込もうとする、その学問について真面目に取り組もうとしている授業は評価の低さでやがて淘汰されるのだ。
 ある教授が言っていたのだが、毎年学科に経営陣から授業を削減しろと要請が来るようだ。
 おそらく、人が集まらず、評価も低い授業は学部長すらも庇うことが出来ずに消滅してしまうだろう。もちろん授業の質が低い授業もあるだろうが、本当に必要な授業すらも消えてしまう。
 学生へのアンケートは、学生をお客様にしている。お客様の評価は絶対だ、たとえ怠惰で歪んだ自己利益を追い求めてるお客様でも。

体系的な授業の少なさ

 基本的に、ある学問を学ぶときにはその歴史、著名な学者の名前を覚え、そしてどのような主張がなされてきたかを学ぶ必要があるだろう。
 けれども、大学に通ってみてそのような授業が非常に少ないように思えた。
 感覚として、三つのタイプの授業に分かれている。
・初歩的すぎる授業
・入門的だけれど、講師の興味関心をもとに散逸的な題材が選ばれる授業
・発展的で、その学問を知っている必要のある授業
 「初歩的すぎる授業」とはそのままの意味で、楽単すぎる授業だ。その授業をとっても新たに知ることは無いとなってしまう授業。
 「入門的だけれど、講師の興味関心をもとに散逸的な題材が選ばれる授業」、これに関しては、いい授業だけど、あんまりその学問の概観をつかめないことが多い。
 「発展的で、その学問を知っている必要のある授業」、これは面白いこともあるけれど大抵授業以外に、多くの書籍を読まない限り太刀打ちできないことが多い。こういった授業に頑張って齧り付こうとしたけれど、結局時間をかけた割には評価はC(4段階の内、一番下。単位はもらえる)という結果になることが多い。そればかり取るとGPAが下がり、ゼミ選び、就活、留学にも響いてしまう。
 以上の通り、ちょうど良いレベルの授業が少ない気がした。
 そして発展的な授業は、成績評価が厳しい傾向にあり、学生にとっては時間をかける割には成績のよくないコスパの悪い授業になってしまう
 だからこそ楽単に学生は吸い寄せられてしまうのだ。

教員の諦め

 教員自体、もうまともな生徒しか取り合わなくて良いと思ってるのかもしれない。
 教員は研究が主目的だから、講義は少し面倒くさい業務のように思ってるかもしれない。
 先ほどグループワークで、まとめサイトを引用した発表を行った班があると言ったが、それに対して教員は情報ソースは大丈夫なのかという指摘は一切してなかった。そして、一言ぐらい簡単な感想を述べただけ。
 その教員が、それに気がついてない訳ない。その教員は教授職だった。ちゃんとした研究者で、そのリテラシーに関しては人一倍敏感なはずだ。
 絶対気がついているのに指摘しないのはなぜなのか。
 まず限られた授業時間の中でわざわざ情報リテラシーの解説をするのは手間がかかるし、本来のシラバスから外れてしまう。
 そして、情報リテラシーを学生がきちんと養うにはある程度の時間がかかってしまう。
 次に授業評価アンケートの結果を下げないためだ。まあこれは教員が意識しているか分からないけれど、少なくとも「情報ソースが怪しいものの発表は一切評価できないよ。低い評価とするね」と公言してしまったら、学生からの強い反感を抱かせるだろう。
 教員が学生の気持ちを忖度しているのは間違いない様な気がする。あからさまにそれを指摘したらギスギスした授業になるのは予想できる。

なんで学生に情報リテラシーが無いのか

 一応、大体の大学ではパラグラフ・ライティング、論文・レポートの書き方といった授業が一年生で必修になっていることが多い。その授業で、きちんと情報リテラシーを教えているかというとそんなことはない。
 大体の場合、その授業は論文の書き方という体裁を取りながらも、講師の興味関心を語る授業になってしまう。多分、講師としても論文の書き方や情報リテラシーといった地味なことを一年かけて30回程度の授業をやるのは苦痛なのだろう。
 情報リテラシーというのは、ある程度長い時間を伴って学習する必要がある。本当に手間がかかる。
 それにその授業は、基本出席して適当にレポートを出せばいいぐらいの緩い授業だった。それでは学生もその授業に不真面目になるだろう。
 大学教員にとっても、その面倒臭さゆえに真面目に取り組まないのだろう。学生が授業に不真面目になっているのと同じぐらい。
 情報リテラシーの授業は、教員、学生の努力によって形骸化しているのだ。

学問なんて、何の役にも立たない

 学生が反知性主義に陥るというよりは、どうして学生に正しい学問知識が携わっていないかというわずかにずれた話をしてきた。もちろんこの話は、学生が反知性主義に傾倒してしまうきっかけを作ってしまう点では重要な話だ。
 けれど、どうして反知性主義になるのか、その明確な答えを出してない。わずかにずれたことを話してきた。
 もう、その答えは本当に簡単な問題だ。
 学問なんて何の役に立たない。
 もうそれが全てだ。究極的な答えだ。
 人間関係にも、就活にも(理系の場合別かもしれないが)、恋愛にも、青春にも、何一つ寄与しない。
 間接的には作用するかもしれないけれど、それは遠回りだ。
 学生のプラグマティズム的な行動様式に従えば、学問なんて無用の長物だ。
 むしろ学問を学べば学ぶほど不幸になる気がする。
 自分は多くの専門書を読むのだが、きっと研究者の知識に勝てないのだなと暗い気持ちになる。そして、その学問の蓄積が役に立った記憶があるかというと微妙だ。ただ、自分の知的好奇心を満たすためにしか役に立たない。
 そんな知的好奇心を埋める必要を感じない人間にとって、学問は無力なのだ。
 学問を愛する自分にとっては否定したい事実ではあるけれど、否定できないのだ。
 残念ながら、自分にはそれを解決する方法は思いつかない。学生側、大学側、そして社会によって作られた複合的な問題だ。
 もっと勉強しろ、本を読め、学べ。
 そうやって、自分は一人寂しく大学図書館で本を読む日常を繰り返す。
 
 

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