藤本壮介と山本理顕の諍いについて


場という考え方 

 公共の場においてレトリックを発揮させるとき、あるいは論理的な説明によって人を説得するとき、必要になるのは言葉の選び方であって、繰り返した用法を用いないようにするとか、わかりやすくもへりくだりを感じさせない語彙を選出するとか、そういうことに日々苦心しているのではないだろうか。私たちを説得するために、一撃でその理解に向かっていけるような、最大限にして最小の手による用法がどのようであるかを考えるために私たちは普段から心を砕いている。
 場(space?)という概念もまた、レトリック同様の重要な考え方であって、言葉の取捨選択があるように、出すべき場、出さないでいる場といった分別が必要なものであると感じる。場というものは非常に大切な概念であるけれども、日本語を使っている私たちが、普段からその場の問題を注視しているかどうかは非常に疑問である。陸続きしていないこの日本という国にとって、語られている場は、どこまで行っても日本という領域の場から発言しているという認識で進められてしまう。それは、日本語を公用語として用いる国が一つしかない(厳密には異なっているが)という点と、同じ陸の中に別の国が存在していないという点で、外国他諸国の概念として確立されている場という概念とは本質的に異なってしまうだろうと考察する。
 どの立場でものを語るのかという観点が文化的に養育される可能性が著しく低いという観点は、これからのいくつかの問題を語るうえで必要な事かもしれない。

諍いの場

 その場を考えてみる。特にここでは、山本理顕と藤本壮介のX(旧Tweeter)での一連の行いの過程から、場の問題点について考えてみたい。

 山本理顕と藤本壮介の衝突はここ最近に始まったことではなく、大阪万博の会場デザインプロデューサーとして選任されたころから始まっている。山本は、1970年過去の大阪万博の状態を引き合いに出し、不明瞭で不穏な会場の設計方法に対して、藤本を過激に非難している。藤本は受け答えの雰囲気から、もっと大きな組織の傀儡のような印象を受ける。
 公的な場で恥もなく行える空気の読まなさが(プリツカーをタイミングも悪く)山本の老害感を強めているし、場も考えず応答してしまう藤本も、その携えてきたブランドの印象とは真逆で多少の泥臭さをまとわせてしまっている。

 このインターネット上でのレスバトルに対して、非常な不快感を感じる人々はいるのではないだろうか。2000年代から始まっている2ちゃんねるで行われてきたようなことを一番偉い人間がやっていて非常に俗っぽい、安っぽい印象は受けるのではないだろうか。しかし、この情報化社会であるからこそ見いだされる俗っぽさであるということを注目しなければならず、これが建築雑誌内で行われてきた討論とその形式はあまり変わっていないという点を注意して観察しなければならない。あくまでも議論を行う場の設えが整っていないということなのだ。

 ここに場を提供した批評家、東浩紀がいる。彼はその状態の批評性を評価して、ゲンロンという場を提供し、令和の饗宴を開催させた。
 その場で行われた討論会は、会場の設えも相まって非常に好印象に受け止められ、後味のよい劇場が出来上がった。しかし、議論の内容は至って変わっていない。というのも、山本が求める情報開示という要望が受け入れられていないからである。老翁山本は、それしか発言することができずにいるために、これ以上の批評的な討論は見いだされない。それ以上の議論に発展していかない現状が、メディアがついていけない(あるいはいかない)状態を生んでしまっている。結果、よくもわからない自称ジャーナリストの鋭そうな問答を介入させる原因にもなっている。非常に不愉快である。

 ここに、この討論の不毛さを抱えている。本来なら、東のようなキュレーターに導かれてあるべき場で語られている情報が、私たちが日常で閲覧する媒体から見えてしまっている。この流れに対して場を整えていける人間が指導して設えを次々に用意していかなければならない。しかし、見えている情報が少なく、後に続くような状態ではない。つまり展開がないし、藤本も意図的にそのように仕向けているように見える。
 そして新たな不毛さの一つであるデザイン監修者本人が議論の場を設けなければならないという状態が発生している。藤本は今回の件で誰も味方につけようとしていない。というかできない。完全に孤立してしまっているように見せている。様々な問題を抱えてきた日本の50年ぶりの大きな国家プロジェクトであるが故に誰もが火傷をおそれて、火中の栗を拾えない状態になってしまっている。種火は大きく燃え盛っているが、明るいだけで何の魅力もない訳なのだけれど。告発者が言いたいだけのことを、国民が知りたいことなどと存在の影を大きく見せて威嚇しているだけだ。応対者がただ回答するだけの状態に、私たちは面白さを感じることができていないことがその魅力のなさを物語っている。このような力関係が影響して、結果として藤本は、Xという場で応対せざるを得なくなってしまっている。
 
 ゆえにこの問題は、内容がどのようであれ、場を整え、発言する場を手配することができれば、十分な議論として認められるものであったことは確かだ。相手の行動によって、あるいは場を用意する後釜がいない状態が、私たちのなかに残る、悲しさの所以なのではないだろうか。諫めることもできないほど偉い人間の縦横無尽が人々の心を傷つけている。これは2ちゃんねるのレスバトルのように私たちは楽しむことはできない。

なぁんか悲しいよな

  これから出るべき場を控える私たちが、この先どのようにふるまうべきなのかその悪い例を教えてもらっているのだと思えれば、この感情の、悲しさの、矛先が私たちの肝に刻んでいけるのかもしれない。老い先短い彼の最後の灯を煌々と示している姿をほほえましい、たくましいと遠目で見て、距離をとってもいいのかもしれない。
 とにかく、この一連の流れは、場を弁えるとがどのようなことかを考えるのによい題材であるように思う。どの場所で発言するべきなのか、内容と場の吟味はなされるべきだ。


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