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係り結びの法則
未熟な自我だが言挙げするゾ、という意志が係り結びに表れている。言語化したら実現してしまうことを恐れながら、それでも、自我は一文をこじ開けようとしているのだ。係り結びは、単なる強調ではない。
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そして、
係り方を重視すると、前置詞を発達させ、修飾語は文末へ投げ出し、
結び方を重視すると、後置詞を発達させ、修飾語は文頭へ投げ出す。
だいたい、そんなところであろう。
大野晋『日本語の教室』で、係り結びが、タミル語の古典(紀元前二〇〇~紀元二〇〇年頃)にもあると、軽く触れられていますが、それはさておき、次のような記述があります。
皆さんが文法嫌いであることには、それなりの理由があると思います。あるとき一人の学生が言うには、高校で「係り結びなんて何故あるのですか」と質問したところ、「そんな質問する奴があるか。あるからあるんだ」というお叱りをうけたとのこと。それでは文法が好きになりようはありませんね。しかし先生の側にもわけがあると思うのです。多分その先生も何故係り結びがあるのか疑問に思っていたでしょう。しかしその答えはどの文法の研究書にも書いてない。つまり日本文法の学問そのものが、まだそこまで届いていないのです。分からないままで、先生は教壇に立たなくてはならない。そこで、ただこういう事実があると、それだけを一所懸命説明している。実は私もそういう先生の仲間の一人だったのです。――pp.96-97
学生の深い質問に対して、先生は「分からない」と言って、重荷を下ろしたらどうだろう。より適切な答えが見つかりそうな学問を紹介したらどうだろう。国語科は、助けを求めるように、諸学と連繋したらどうだろう。
以上、言語学的制約から自由になるために。