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言語意識の探究

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探究の過程で遭遇した書籍の記事です。スピリチュアルな本でも、言語に言及するところがあれば読みます。
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記事一覧

J・B・テイラー『奇跡の脳』にて(言語)

今回の記事は、過去の記事「J・B・テイラー『奇跡の脳』にて」のつづきです。テイラーさんは脳卒中で言語中枢を損傷しました。 テイラーさんは、「読むこと」を学び直さなければいけませんでした。 物心がつく前の私たちが、読むことの訓練をするときに、感じていたと思われるモヤモヤを、テイラーさんは、言語化しています。 さて、テイラーさんは、言語中枢が回復して機能し始めると、左脳マインドの振る舞いを観察して、注意すべきだったことに気づきます。 だが、その左脳マインドを野放しにすると

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』にて(共在感覚)

今回の記事は、過去の記事「ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』にて」の追記です。「「共に在る」という感覚」という節を救っておきます。 文化人類学者に蓄積された、常識を揺さ振る体験が、面白い。 以上、言語学的制約から自由になるために。

チャールズ・F・ハアネル『ザ・マスターキー』にて

この書物からは、言葉の使い方に触れるところを取り出します。 この著者は、スピリチュアルな見解も併せた探究をしています。 日本以外のアカデミズムでは、研究方法が確立していれば、研究対象が怪しくても果敢に挑戦します。ところが、日本のアカデミズムでは、研究対象が怪しい研究者を排除してしまうため、日本の公的な教育機関に、スピリチュアルな見解が蓄積されることはありません。 スピリチュアルに欠ける探究が、日本人の頭を歪ませるのだけど・・・。 以上、言語学的制約から自由になるために

リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』にて

この書物では、ニスベットが、心理学実験を紹介しながら、西洋人が分析的(木を見つめる)思考をもち、東洋人は包摂的(森全体を見渡す)思考をもつことを、西洋人の立場から、描き出しています。 今回の記事では、人権の考え方に触れるところを取り出しておきます。 さて、心理学実験によって、中国人も日本人と同じように、森全体を見渡す思考をもつ傾向にあることが改めて分かったのですが、それでも、私には、言語学的な違和感があります。 東洋人なら、状況を把握してから動作する主体を思考する傾向に

モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて

言語学の初心者は、この書物から読み出しても良いと思います。いまや初心者の大半は、チョムスキーの「普遍文法」やピンカーの「言語本能」に触れなくても、十分に満足できるのではないでしょうか。 まずは、「訳者あとがき」から取り出したい。 そして、言語のあり方を、「はさみ」に喩える本文。 私のイメージを併せると、右利き用のはさみが英語(イザナギの思考)で、左利き用のはさみは日本語(イザナミの思考)みたいな感じです。 以上、言語学的制約から自由になるために。

エドワード・サピア『言語』にて

表現形式としての言語を研究するサピアは、言語と人種と文化の結びつきが必然的なものではないことを、容易に論証しています。  もっとも一般受けするサピアの言語観は、第11章にあります。 その気づきは、自分に気がつく瞬間でもある。 以上、言語学的制約から自由になるために。

B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』にて(言語学とは)

マヤ族の失われた文字体系とか、メキシコのアズテク族やアリゾナ州のホピ族の言語も研究する、ウォーフの言語観はきわめて貴重です。 言語学者は、言語の定義を試みながら、人間を探究しています。 以上、言語学的制約から自由になるために。

國分功一郎『中動態の世界』にて

その「中動態の世界」とは、英語の動詞に能動態と受動態が確立される前の世界です。動詞を使うたびに「する」と「される」を区別して、個人の意志と責任を明確にする文法は、歴史的には新しい文法でした。 英語は、中動態を失い、出来事の記述が難しくなってしまったのだ。 以上、言語学的制約から自由になるために。

オムネク・オネク『金星人オムネクの答え』にて

この書物から、言語に関連するところを取り出しておきます。 この書物は『金星人オムネクとの対話』(2013年)の改題・改訂版です。 こうして、また、表現が、言語変化を促すのだな。 以上、言語学的制約から自由になるために。

ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』を読む

この書物は、ヨーロッパ文化における完全言語の探求をたどります。第二章でカバラーに触れていますが、それは探求案の一つにすぎません。 自然言語の不完全さに言及して、完全言語を探求する潮流は、今もなお連綿と続いているのだが、その潮流は1600年頃に変わったようです。 1600年頃といえば、ヨーロッパは、ラテン語による支配から抜け出しつつあるタイミングです。ラテン語のもとで停滞していた宗教や科学や哲学が、新たな言語場を得て、発達しだすタイミングです。  1534年、マルティン・ル

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』にて

この著者が説く暗黙知は、境界に出入りする潜在的な知です。 この書物からは、言語のあり方に触れるところを救っておきます。 さらに実例を挙げて、もっと詳しく検討してみよう。その実例とは、言語行動である。それは五つのレベルを含んでいる。すなわち、(1)声を出す。(2)言葉を選ぶ。(3)文を作る。(4)文体を案出する。(5)文学作品を創出する。それぞれのレベルはそれぞれ自らの規則に従属している。すなわち、それぞれ以下のものに規定されているのだ。(1)音声学、(2)辞書学、(3)文

バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』にて

著者のバックミンスター・フラーは、言語そのものにも触れています。 著者の思考は、幾何学に基づくシナジー思考です。 第三者から見た著者のエピソードが、訳者あとがきにあります。 著者は、高次元のメッセージを伝えるべく、 形容詞と幾何学を駆使するのだが……。 以上、言語学的制約から自由になるために。

マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号』を読む

理論神経科学者のチャンギージーさんが使う「文化」という言葉は生命体(専門用語で呼ぶなら「ミーム」)のようなものです。 スピリチュアルな見解を避ける彼の文化観が終章にあります。その「文化」を、「集合的無意識」と言い換えても、私は、読めるのだが。 それで、言語のあり方は、自然界のあり方に寄り添うかたちで落ち着いていることが、数々の検証によって示唆されています。たとえば、…… そして、彼は、音楽そのものにも言及しています。 彼のように、理屈をこねないと納得しないのが男性です

マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』を読む

チャンギージーさんは、視覚の超人的能力を検証しています。 科学者ならではの推測だが、問いの立て方が良い。 そして、彼の主張の要約が『〈脳と文明〉の暗号』の序章にあります。 ▼ その「転用」という発想に、スピリチュアルな見解を乗せたい。 人間の霊魂にはもともと超人的な能力があり、その能力を実現すべく、霊魂は人体を転用しているのだが、私たちは、もっぱら、両親の人体の使い方を模倣しており、別の使い方があるとは思いもよらずにいるのだ。 以上、言語学的制約から自由になるため