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『驚き怪しめ』 終末最大の異兆


キリストの福音はナザレ人イエスの受難の死と復活に集約される。それはペテロやパウロをはじめ、初期の弟子らの宣教の主題であった。
だが、それはユダヤ教徒が思い描いていた華々しいメシア、即ちダヴィド王朝の地上の栄光ある座に就き、世界をも統べ治める強大なイスラエルの覇王というユダヤ人の旧来のメシア像を覆すものとなった。モーセの教えに固執した彼らがナザレの人イエスに見たものは、メシアとは程遠く低められた極悪人として処刑された騙り者であった。だが、イザヤの『堂々たる姿も、光輝もない』との「哀しみのメシア」の預言は、『その打ち傷によって我々は癒された』との句と共にキリスト教に於いて成就した。

モーセと神信仰を共通させながらも、キリストの死と復活がユダヤ教とは別次元の宗教の扉を開くに至る。そこに必須とされるのはユダヤ教徒としての律法に従う敬虔で道徳的な外面ではなく、自由な人の内面に醸成される「メシア信仰」であった。
だが、ナザレ人イエスに約束のメシアの到来を見出す信仰深い者らはユダヤ教徒には多くはなく、モーセ以来の伝統からキリスト教への次元上昇に与るには、ほとんどのユダヤ人に困難を覚えさせた。
彼らは眼前で行われる奇跡の癒しに対して、自然な価値観を働かすことが難しく、律法の字句をはじめ旧約聖書の文言に近視眼的に固執していたユダヤ体制派の人々には、却ってイエスが背教者のように見え、遂には大祭司自らが先頭に立って奇跡の人イエスを裁き、極刑を言い渡すに至っている。

だが、他ならぬ神がナザレからの人イエスに奇跡のメシアの印を与えていたのであれば、それを見ていながら否定することは使徒ヨハネが暴露するように『神を偽り者とした』のであり、奇跡を行わせる聖なる霊を冒涜することであった。
他方で、イエスは『わたしを信じずとも、わたしの行っている業だけは信じよ』と父なる神からの奇跡の聖霊を冒涜しないよう促しさえしたのであったが、そのように不信仰なユダヤの者らに対しては、与えられた神からの奇跡の印はただ一つだけが残される事となり、それをイエスは『ヨナの印』と呼んでいた。


キリストであるイエスがいかに多くの奇跡を行ってさえ、不信仰な者らは一向「メシア信仰」に至らず、多くの奇跡も何ら意味を成さなかったのである。それほど不信仰な者らにも与えられた決定的な『ヨナの印』とは何であったろうか。そして、その印が二度目の成就を迎えるべきことを聖書が示しているとすれば、それはどのような意義をもつのだろうか。

イエスの帰天の後に、その聖霊の導きによってその教えの先端を走った使徒パウロは、メシアを屠った大祭司をはじめとするユダヤ宗教体制とそれに従い兼ねない外地ピシディアのユダヤ教徒に向けて、ハバククを引用し『驚き怪しめ、そして滅び失せよ』との警告を発していた。その言葉に違わずその後のユダヤ宗教体制にはひと世代を経ずしてローマ帝国からの『火のバプテスマ』が臨んで神殿が失なわれ、以後今日まで律法の完全な履行は不可能となっている。

だが、後代のキリストの再臨を契機に、その言葉が終末に於いて再び意味を帯びる理由があり、やはりキリストへの誤解がそこに繰り返される。
では、終末でも『ヨナの印』は、終末に於いて凝り固まった宗教的正義感を二度目として完膚なきまでに打ち崩し、 その結果としてユダヤの体制が裁かれたように『この世の裁き』も結審するのであろうか?

(なお、この記事には前半の無料文が以下のブログ記事「キリストのエクソドス」にあり、そちらはキリストの初臨での一度目の『ヨナの印』とその意義について述べ、山中の変貌の中でキリストがモーセとエリヤと共に語った「キリストのエルサレムからのエクソドス」とその成就について述べる)

ユダヤの宗教体制は圧倒的な印を求めたため『ヨナの印』以外を見なかったばかりか、初臨で裁かれたユダヤ宗教指導者層の体たらくは、終末の体制への重大な警告となっている。

そうであれば「信じる者は救われる」とは、終末の試みの時点での裁きを表しており、今現在キリスト教徒であるかどうかに関わらず、世界中の人々に改めて信仰が問われる決定的な時が来ることになり、それは現状での思想信条の違いも乗り越えて、あらゆる人に同一の神からの問いが行われる。

それは現状で「信者は救われている」と唱えるキリスト教を標榜する諸宗教には都合の悪い話になってしまうのだが、これが神の意向であるなら各宗派の都合どころの話では済まない道理がある。
そこで、神と子と、それに加えて『聖霊』を含めた信仰が求められることになるであれば、その第三のもの、「聖霊への信仰」とは具体的に何を指しているか?


 「キリストのエクソドス」 無料記事 (一万三千文字)
 https://quartodecimani.livedoor.blog/archives/52016886.html  


続編のこの記事では、「キリストのエクソドス」を「聖霊によって語る終末の聖徒ら」に敷衍する記述から、二度目の奇跡「ヨナの印」が終末の体制に何を意味するかを記す。
一部の教会員により、目出度い「携挙」と誤解されているところの、熾烈な試みを経る「聖なる者ら」の顕現と働きにより、ハバククの言葉はユダヤ一国から世界全体へとその重みを増してゆくであろう。それから人々が『恐れ驚き』天の神を仰ぐその時、地を揺さぶる二度目の成就が待っている。

終末での『ヨナの印』に信仰を働かせるなら、誰であれ未だ幸いに至る機会あり、その人々による世の糾弾の業のためにも終わりはなお猶予される。
終局に在って、人々は究極の偶像である「地上の神」と不可視の「天の神」との論争に巻き込まれることになろう。
但し、もはや然程長く『この世』はもたない。

ユダヤが『火のバプテスマ』を被ったように、聖霊を通した神からの印に不信仰を表す『この世』にも終局の時が訪れることになろう。では、現状に凝り固まり『この世』に執着するとは、どういうことだろうか?

「『驚き怪しめ』 終末最大の異兆」


(以下、約九千七百文字)

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