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他者への怒りは、実は自分自身への怒りだった

昨日、自転車に乗って、家に帰る途中、人に注意される出来事があった。私が通った歩道は、歩行者用と自転車用が分かれていて、歩道上に表示されているものだった。

自転車に乗っていた私は、特に何も考えず、歩行者用の道を走っていた。すると、前方には、犬の散歩をしていた女性が歩っていた。犬と私がもしかしたらぶつかるかもしれない、犬が危ない!ととっさに思ったであろうその女性は、自転車用の歩道に犬を引っ張り、すれ違いざまに、「自転車はこちらじゃないんですか!?」とものすごい剣幕で声を荒げていた。

私が表示を無視して、自転車に乗っていたのは、悪いことなのだが、何だかとてもムシャクシャして、腹が立った。私が悪いのはわかる、でも、なんだろう、このイライラは。。。と思いながら、帰宅した。

自分は人から非難される、攻撃される存在なんだと弱い自分に対する怒りだったり、思いこみが投影された結果なのかな?と思ったけれど、どこかしっくりこない。

一晩明けて、「自分は言いたいことを好きに言ってはいけない」と自分が自分に許していないことに気づいた。自分の思い、感情を言いたいように言って、人に嫌われるのが怖い、人を不快にさせて傷つけるのが怖い。そんな怖れから、言いたいことがあっても、自分が我慢して丸くおさめようとしたり、自分の本音を言わないという自分の行動の癖にも気づいた。

そうか。自分の言いたいことを素直に伝えることを自分に禁止しているから、それができている人を見ると、「私は我慢しているのに、何なの!?」と怒りがわいてくるのだと思った。その怒りは、相手に向けられているものではなくて、実は「言いたいことが言えない」自分自身に対する怒りだったのだ。その怒りを、すれ違った女性を通して、自分が見せられているだけなんだと思ったとき、モヤモヤの正体はこれだったのかと腑に落ちた。

そう考えると、昨日はあんなに腹が立った女性に対して、今は全く別の感情になっている自分がいる。「私の気づかなかったことを教えてくれてありがとう。歩行者側を自転車で走ってごめんなさい。今度からは気をつけて走ります。みんなが気持ちよく、安心して、通行できるように。」

自分の感情の揺らぎや違和感は、何かに気づくためのヒントになる。自分は何を怖がっているのか、どうして怖がっているのか。そして、その怖れの先には、自分の本当に望んでいることが隠れている。

「私は、自分の思いを素直に伝えたい」

その望みに気づき、怖れを越えて、小さな行動を起こしたとき、きっと今までとは違う世界が広がるのだと思った。


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