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「丁寧にわかりやすく説明すれば学び手に理解され、繰り返せば定着する」は教え手のもつ誤解である

この表題は、『学力喪失』(岩波新書)において著者の今井むつみ先生が書かれている言葉です。至極同意できる主張であり、現在の初等教育から大学における高等教育においても、非常に重要なメッセージだと思います。

「丁寧にわかりやすく説明をし、繰り返す」というのは、考えてみると確かにAIを教え込むのと全く同じ作業です。現在は膨大な学習データを入力し、出てくる不適当な出力を修正するように丁寧な誘導、微調整のフィードバックで、AIを繰り返し繰り返し教育して、設計者が考える正解を高い確率でAIが出すようにしています。でもこれと似たことを、これまでの教育で無意識にしていることはないでしょうか。

今井むつみ先生は下記記事でも興味深いことを沢山おっしゃっています。

『学校に行くようになると、子どもたちは乳幼児期のように探索をすることが少なくなる。知識は自分でつくるものではなく、教えてもらうもの、と思うようになる。... テストで高い得点を取ることが「成功」と思うようになり、失敗することを怖がるようになる』

『すると、子どもたちもコンピュータと同じように、フレーム問題に直面してしまうのである。先生に教えられた「外にある知識」を覚えても、それをいつ、どう使ったらよいのかわからなくなるのだ。』

『しかし、呼吸をするのと同じくらい当たり前に日々世界を探索し、学び続けている子どもたちが、なぜ学校では自ら知の世界を探索することをしなくなるのだろうか。教えてもらった知識の断片を「覚えること」が学校ですることだと思ってしまい、その結果、学ぶ力を喪失してしまっているのだろうか。』

『「効率化」のために生成AIを使い、子どもが自分の頭で考えずに、すぐに答えを求めることが習慣になったら、ほんとうに大事なことにも記号接地できなくなり、つねに知識のかけらを求めて情報の海を漂流するだけの人間になってしまう。』

『自分が解決する問題のために、どういう情報が必要なのか。膨大な量の情報の中で、どの情報が重要で、どの情報は棄(す)てるべきなのか。どの情報は信頼でき、どの情報はフェイクなのか。その判断も自分でしなくなってしまう人間ができてしまったら、ほんとうに怖い世界になる。』

これらの今井先生の言葉でパッと私に想起されたのは、算数で距離、速さ、時間の関係が身に付かない子供達をテストに合格させるために、暗記でそれらを教える「きはじ」と呼ばれる下の図です。

「きはじ」の図

例えば、「距離」を求めたいときには、「きょり」の「き」を指で隠します。すると速さの「は」と時間の「じ」が横並びに見えます。2つが横に並ぶときには、「は」×「じ」、つまり速さ×時間であると覚えさせます。速さを求める問題では、図中の「は」を指で隠します。すると今度は分子に「き」、分母に「じ」が来る分数のように読めます。つまり速さは「距離割る時間」という分数であると覚えさせるのです。時間でも同様で、「じ」を指で隠すと、「き」割る「は」、つまり「距離割る速さ」と覚えさせるのです。後は具体的な数字をそれぞれに入れて、掛け算や割り算をさせて答えに到達をさせます。

この「きはじ」教育の問題点はこれまでも多く挙げられてきました。特に重大な欠点は、「距離、速さ、時間の関係を本当は理解していないのに、正しい答えだけは得られる」というところです。理解をしていないAIが正しい答えを出すのと、全く同じことをしているのです。人間のAI化を目標にした感じにも見えます。

最近の若い物理学徒の方々は、これに近い思考を持っていると感じることも増えました。「わかりやすい教科書で習い、演習でそれを繰り返すことで慣れて、使えるようになる」ことを自ら希望する人も多いです。でもそれだけではAIと変わりません。使えているだけで、本当は「距離」も「速さ」も「時間」も理解していません。

「きはじ」のような極端な手抜きの理解はしていないという人でも、よくよく話すと結局「きはじ」思考法と変わらない考え方しかできていない場合もあります。そういう人でも、結局以下の(1)式が書けるというだけという場合があるのです。

(1)式

ここでLが距離、vが速さ、tが時間です。数式変形の仕方は覚えているので、この両辺を入れ替えて、例えば時間tで両辺を割ることはスムーズにできます。すると速さが出てきます。

(2)式

(1)式から同様に時間を求めることもできます。

(3)式

でも(1)式を覚えて、(2)式、(3)式を導けたとしても、これは本質的に「きはじ」と何が異なるのでしょうか?その人が「距離とは何か」、「速さとは何か」、「時間とは何か」を本当に理解していると言えるのかは、とても微妙です。繰り返し繰り返し、(1)式、(2)式、(3)式に具体的な値を入れて答えを出す演習をさせても、正しい数値は出せるようになりますが、理解に達したと判断することはできません。

私自身も具体的な演習はとても重要だと思っているのですが、単に使用法に慣れるだけの演習ばかりしていては、AIと変わりません。またそのような単純作業については、今後AIの能力が人間の能力を圧倒します。つまり人間がAIのモノマネをしても意味はないのです。

概念創発など、AIにはできない深い知的作業が人間には求められていくことでしょう。それには安易に「わかりやすい教科書+慣れる演習」だけで勉学を終えることなく、もっと深いレイヤーの思考が要求をされる高度な教科書や書籍に挑戦をして、自分自身を鍛えていくことが求められるだろうと思うのです。

SNSで興味深いコメントを見つけました。江沢・中村・山本『演習詳解力学[第2版]』(ちくま学芸文庫)という演習書の「はじめに」に書かれていることだそうです。

「つねづね学生たちに言うのだが、演習というものは、あたえられた問題が解けたところから始まるのである。これが言い過ぎなら、問題が解けたところで道は半分。残りの半分こそ重要、と言い直してもよい。残りの半分とは、手に入れた解を吟味すること、問題を変形してみること、...」

これこそがAI時代に人間が行うべき演習なのだろうと、私も思います。この「吟味」の中には、「本当に自分は理解に達したのだろうか?」という自問を何回も何回も繰り返し、その演習問題を超えて、より深い問いを自分で設定をしていく能力を鍛えていくことが含まれていると、私は考えています。距離、速さ、時間とは本当は何か?と常に自分へ問いかけられる教育が、AI時代には必要だと思うのです。

大学でも「わかりやすい教科書+演習で慣れる」教育を受けて成長し、狭い専門分野で論文を書ける物理の研究者になっている人も多いです。でも、その人達が量子力学の箱型ポテンシャル問題を教えるときに、「何故波動関数が連続でなければならないのか?」という、深く考える思考の学生からの質問へ答えられないことも、実際あるようです。

「わかりやすい教科書+演習で慣れる」という「きはじ」的な教育で、例え狭い分野の流行のテーマに限定をされていても、ちゃんと論文が書ける人が増えたことは良いことだという評価も世間にはあります。でもその人の思考の本質な部分が、慣れによる「きはじ」と変わっていないかが、とても気になる部分です。

取って付けたような浅いレイヤーだけの思考で済まし、狭い分野の流行のテーマで論文を量産する「論文作家」になってしまっている研究者達を常々批判されていたのも、第78回毎日出版文化賞を受賞された佐藤文隆先生です。

これからは発想の乏しい、パターン化された研究は、論文を書き上げるところまでAIサイエンティストが自動で行うことになるでしょう。そのようなAI時代に求められるのは、「きはじ」的研究作業に慣れている人材ではなく、AIには手が届かない深い真の理解を世に提供する研究者達なのだろうと思っています。ですから若い学徒達には、そのような意識をしっかりと持って、歯ごたえのある著作や思考にも挑戦をすることをお勧めするのです。

補足:高校での教育では下記のようなことが現実に起きているようです。
「高校の先生の仕事は問題の解き方を教えることです.どうしてそうするかを分かって説明している訳ではありません」 「自分が高校のとき先生にどうしてかを聞いても,何も答は返ってきませんでした」

https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~oshima/paper/rims1802.pdf


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Masahiro Hotta
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