仏教とは何か? 応用編 6 意識のみ (全ては意識である)

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 前回の「空」についての議論では、釈尊の弟子達の一部は、釈尊の教えを整理・分類する過程で、この世界のいくつかの基本的な構成要素には、実体がある、と考えるようになったことを、見てきました。
 しかし、そのような実体論は、釈尊の中道と、無我の教えに矛盾する、と見なされ、龍樹とその弟子達は、彼らの実体論を体系的に否定し、前の章で説明しましたように、全ては究極的に「空」であると主張しました。
 しかし、全てのものは究極的には「空」であり、実体は無いことは確かですが、釈尊が十二因縁の理法で明らかにされたように、個々の存在の、妄想のサイクルは、確実に存在し続けています。そして、先にも説明しましたように、この妄想の連続は、「中道」を完全に悟るまで続くのでした。
 「空」を詳述した龍樹の弟子達は、後に中観派と呼ばれる哲学学派を形成し、説一切有部のような実体論者達と、論争を繰り広げたのでした。しかし、こうした論争では実体論への反論が重視されたため、「実体を持つものなど、何一つないことが強調され、悟りをひらけば、すべての現象は、無に帰するのではないか」という虚無的な印象を持つ人さえ出てきました。
 このような懸念に応えて登場したのが、瑜伽行派とも呼ばれる唯識派でした。この瑜伽行派の、創設に関わる主要人物は、高名な弥勒菩薩であると言われています。歴史上の人物としての、弥勒菩薩の存在は、文献では確認されていませんが、「無着」という人物が、瞑想を通じて、天界の兜率天で弥勒菩薩に会い、教えを受け、それを記録したと伝えられています。
 現代の研究者の中には、「無着」が実質的に瑜伽行派の創始者である、と主張する人もいますが、「無着」が弥勒菩薩の教えを記録したものと、彼の著作との間に、文体の相違があることから、兜率天の弥勒菩薩とは別の瑜伽行派の創始者がいたのではないかと推測する研究者もいます。
 いずれにせよ、唯識派としても知られる瑜伽行派は、瞑想の実践に重点を置いていたことで知られています。中観派とは異なり、彼らは「空」の考え方を強調するだけではなく、たとえ究極的には実在しないものであっても、日々の体験に裏打ちされる現象が、(実際に)どのように現れるのかを、積極的に説明しようとしたのです。
 瑜伽行派によれば、各個人は、8つの意識から構成されているとされます。まず、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚情報を生み出す、「5つの感覚意識」があります。そして、これらの感覚情報を、言語を通して、知覚として合成する、第6の意識があり、(当に)「意識」として知られます。
 感覚意識は、外部からの情報を知覚するのではなく、内部の阿頼耶(アラヤ)識から送られてくる感覚情報を、外部に投影するのです。たとえば、目の意識は、さまざまな視覚的知覚を、内的に映し出し、それを外部の物体や風景として、認識するのです。同様に、耳の意識は、様々な音を内側に投影し、外部の音として認識するのです。他の感覚意識である鼻、舌、身体、も同様の働きをします。
 これら6つの意識の先には、「阿頼耶識」があり、よくコンピューターのハードディスクに例えられますが、ここに、過去からの全てのデータが保存されています。しかし、受動的なデータバンクとは異なり、「阿頼耶識」(記憶識)に保存された情報は、絶えず湧き上がり、先に述べた6つの意識を生み出すのです。さらに「阿頼耶識」に基づくこれら6つの意識の根底には、「阿頼耶識」を自己意識の根拠であると妄想することで、自己への執着の根拠ともなっている、第7番目の末那識が存在します。
 「阿頼耶識」から生じる、末那識は、自己という概念を強化し、この自己を維持することを目的とした行動に駆り立てるのです。あらゆる利己的な思考や行動の源とも言えるものです。
 そういう意味では、釈尊の中道と無我の教えを認識し、利他的な菩薩道を貫くことは、末那識の利己的な影響を、克服する方法である、と言えるのかもしれません。
 このように、人間は五感の意識、それらを統合する意識、末那識、「阿頼耶識」の8つの意識から生じると言われています。
 さて、このメカニズムをもう少し詳しく掘り下げてみましょう。
 「阿頼耶識」には、過去に自分がおこなった全ての行為の記憶が貯蔵されています。利己的な考えや行動、利他的な考えや行動、その中間の考えや行動も全て記憶されているのです。
 人が生まれ変わって、新しい人生が始まるとき、阿頼耶識は、蓄積された過去のデータに基づいて、新しい人生の「環境設定」を行います。

 仏教における「業(カルマ)」という概念は、「阿頼耶識」に蓄積された、過去の思考や行動の記憶の事を意味しています。但し、これらの記憶は、新しい人生のための環境設定をするためのものでしかありません。したがって、過去に数々の悪行に手を染めたとしても、次の世で必ず悪人に生まれ変わる訳では決してないのです。ただ、過去の自分勝手な行動の結果が、不利な環境設定という形で現れ、いじめられるなどの経験をすることはありえます。しかし、そのような状況下でも、過去の行いを反省し、後悔の念を持ち、復讐などせずに、反省と善行を続けていれば (これを仏教では「懴悔」と言います)、その結果、来世の環境設定は非常にポジティブなものになり、親切で利他的な人々に囲まれることになるでしょう。
 要するに、「阿頼耶識」に蓄積された記憶に基づいて、新しい人生の環境設定が確立されます。そして、その環境設定の中での新しい自分の思考と行動が、刻々と「阿頼耶識」に記録され、それに基づいて、その後の人生の環境設定がまた形成されるのです。
 従って、恵まれた環境に生まれても、感謝の気持ちを表さず、利己的な行動をとりつづければ、将来は苦難に満ちたものになるでしょう。逆に、最悪の環境に生まれたとしても、常に感謝と反省の気持ちを表し、利他的な行動をとることが、状況の改善につながるのです。
 このように、自分の現在の境遇や環境は、すべて自分の過去の行いによって決まるのであり、絶対的な自己責任の領域なのです。しかし、何事も個人の責任ではありますが、だからといって、本人だけに責任を押し付けて、放っておいても良い、ことにはならないのです。たとえ過去の行いが原因で悲惨な境遇に陥ったとしても、その様な困っている人を助けることは必要不可欠なのです。
 もともと強い人間などいないのですから、各人の問題を、乗り越えるためには、相互扶助が必要であり、そこにこそ利他的行為の原点があるのです。
 その意味で、近頃よく耳にする「自己責任」という言葉は、困っている人を助けないことの正当化として、悪用されがちです。しかし、そのような使い方は、その人の利己的な性格を反映しており、自分自身が本当に困った状況に陥ったときに、初めてその態度の残酷さを思い知ることになるでしょう。
 したがって、しばしば運命論と誤解されがちですが、仏教における業(カルマ)の概念は、定められた運命を意味するものでは決して無く、むしろ、大まかな環境設定に影響を与えるだけで、その中での行動の自由は完全に保証されていることを、忘れてはならないと思います。

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