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三浦芳聖伝 16、日曜院の住職時代(5)田中光顕の告白「明治維新は南朝革命」


1、三浦皇統家系図の鑑定を仰ぐ

山口鋭之助に師事して国学や大国隆正の「本学(もとつがく)」を学び、師弟の情が水魚の交わりの如く親密となった昭和4年(1929年)2月、芳聖は熟慮の末、思い切って三浦家の系図を地下から掘り出して行って鑑定を仰いだ。

芳聖は三浦家の系図を見て、閏統(北朝)の天皇が「萬世一系」と国民を欺いて統治する国の一国民として生きる事に「大矛盾」を痛感し、悩みぬいた末に、命懸けで勝負に出たのだと思う。

山口鋭之助(1862年3月9日 - 1945年3月4日)
出雲国(現・島根県)松江に松江藩士・山口軍兵衛礼行の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。
東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。
その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。

この時、さすがの山口鋭之助もびっくりして「私の一存では何ともお答え出来ないから、私の大先輩で、かつては宮内大臣をなさった、明治維新の勤皇の志士であった「田中光顕伯爵」が、まだ御生存中であるから、此の方にお尋ねして見よう」という事になって「田中光顕伯爵」のお宅へ電話で連絡を取り、芳聖を連れて行って下さった。

田中光顕(1843年11月16日 - 1939年3月28日)
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

2、田中光顕の告白「明治維新は南朝革命」

田中光顕
田中光顕

芳聖が「田中光顕伯爵」に系図を見せたところ「田中光顕伯爵」は、下記のように答えた。(ここは非常に微妙な箇所であるので、以下、三浦芳聖の著書から直接引用します。誤字を訂正し、ルビや句点を補い、改行するなど読みやすく編集しました。)

 これは我が国の一番正しい歴史だ!、確かに太平記をみても比叡山に於て「後醍醐天皇」が春宮に御位をお譲りになったと書いてある。学者間に於ては、之は「恒良親王」に御位をお譲りになったと云われているが、あなたの所の記録を見れば、「尊良親王」の第一皇子「守永親王」が「後醍醐天皇」の第七の宮として「大統宮」となっていて「後醍醐天皇」には「守永親王」に御位をお譲りになったと書かれている。
  これが正しい歴史であろう。
  けれども今現在は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り絶対に千古不磨の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の欽定憲法に依って大日本帝国の国體は永遠に確立せられたのである。だからあなたが今此の事を発表したならば、それこそ「幸徳秋水」同様闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて極刑に処せられることは火を見るよりも明らかなことであるから、あなたのお父上がおっしゃった通り、早く埋蔵して何人にも一切語られぬがよろしい。

と言われて、さっぱり私の疑問を解いて頂くことは出来ませんでした。そこで私(三浦芳聖)は

 伯爵は「之は日本の正しい歴史だ」とご鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表する事が欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表する事が極刑に処せられるような欽定憲法であるならば、今このまま直ちに私を司直に渡して、極刑に処して頂きたい。

と申し上げました。(このことは、この系譜に書かれていて而も神風串呂に昭示された、直系の者で無ければ、第三者では到底分らないと存じます。)
 斯様申し上げた時に「田中光顕伯爵」は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、軈(やが)て

 私は六十年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には「西園寺公望公爵」只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました。

と前置きされて、

 実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還明治御維新と云う時に急に崩御になり、「明治天皇」は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘「中山慶子様」で、お生れになって以来中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を「睦仁親王」と申し上げ、「孝明天皇」崩御と同時に、直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は「明治天皇」は「後醍醐天皇」第十一番目の皇子「満良(みつなが)親王」の御王孫で、毛利家の御先祖即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、此の御王孫を御守護申し上げて来た。
 これが即ち吉田松陰以下長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元勲(岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、之を維新の三傑と称する。)木戸孝允即ち桂小五郎であるが、元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の「桂小五郎」と「西郷南州」とを引合せて、遂に薩長連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の「坂本龍馬」と「中岡慎太郎」である。
 薩長連合に導いた根本の原因は、「桂小五郎」から「西郷南州」に、我々はこの南朝の御正系をお立てして「王政復古」するのだと云うことを打ち明けた時に、西郷南州は南朝の大忠臣「菊池氏」の子孫であるから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩藩を尊皇倒幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が「大政奉還明治維新」の原動力となったのだ。
 明治天皇には明治維新になると同時に、「後醍醐天皇」の皇子「征東将軍宗良親王」のお宮を建立してお祀りせよと仰せになり、遠州の「井伊谷宮」の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年御鎮座あらせられ、同六年には官幣中社に列せられた。
 而して御聖徳に依り着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民挙って欽定憲法の通り即ち「明治天皇」の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として、此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治四十四年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、「明治天皇」は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、従来の歴史が訂正せられたのである。
 斯様にして世界の劣等国から遂には五大強国の中の一つとなり、更に進んで今日に於ては、日英米と世界三大強国の位置にまでなったと云う事は、「後醍醐天皇」の皇子の御王孫「明治天皇」の御聖徳の致す所である。

 王政復古明治維新の真相を尚此の外に「岩倉具視卿」の活躍や、「三條」以下七卿落ちの真相や「中山忠光卿」の長州落等々詳細に渉ってお話し下さいました。(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文32~35頁)

田中光顕伯爵の打ち明け話を分かりやすくまとめると、下記のようになる。
(1)明治天皇は、孝明天皇の皇子ではなく、後醍醐天皇第11番目の皇子「ミツナガ(満良?)親王」のご王孫で、大江氏の後、その子孫毛利氏が長州の萩に於いて御守護申し上げて来た。
(2)黒船来航以来の国難に当って、この南朝のご王孫を擁立しての王政復古勤皇運動が明治維新を推進した幹部の指導原理であった。
(3)吉田松陰亡き後、この勤皇の志士を統率した長州の桂小五郎がこの事を打ち明けると、南朝の大忠臣菊池氏の子孫であった西郷南州が、この指導原理に感銘して賛同し薩長同盟が成立した。
(4)明治維新が成立すると同時に、明治天皇が後醍醐天皇の皇子宗良親王の井伊谷宮をお祭りされた事実。(明治2年、本宮を造営)
(5)南朝の御子孫である明治大帝のご聖徳により日清・日露の両戦争に勝利した事績。
(6)南北朝正閏論争で国論が沸騰した時、明治大帝は自ら南朝が正統であるとご裁定になった事実。
(7)日本が劣等国から世界の三大強国になったのは後醍醐天皇のご王孫「明治大帝」のご聖徳の致す所である。

*コラム・超世志のここだけの話
『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文で、芳聖は、田中光顕伯爵の前で、明治天王は、松良天皇第四皇子「光良親王」王孫であることを神風串呂で解明して見せたと述べているが、これは何かの間違いである。
 芳聖は別の著書で、戦前、神風串呂を実地に解明して見せたのは昭和15年7月、近衛文麿唯一人だと断言している。(『神風串呂』第161号13頁)
 明治天王が、松良天皇の第四皇子の光良親王王孫である事が解明されたのは、昭和42年(1967年)5月30日の事である。(『神風串呂』第140号)
 恐らく芳聖は、明治天王が、松良天皇の第四皇子「光良親王」王孫である事を書き記して置きたいと強く思念したが、序文以外にその場所がなかったので、このように書き記したものだと思う。稚気愛すべし!呵々!


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🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№129)
🟢次号(№131)

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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