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吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂 (№112)

💟はじめに

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂クシロ(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
  
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。
 
地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。ここでは、「吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂」をご紹介しています。
 
神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
 
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
 
神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂

今回は、三浦芳聖が、「吹嵐」(大台風)の中、「昼神」「神明」として「極楽」(高天原)からこの世に出現したことを昭示する神風串呂をご紹介します。

この神風串呂は、三浦芳聖の「降誕地牧平町大門」、「幼年時代、約4年3ヶ月間の居住地・牧平町マカガイツ」、「4ヵ年半の間、仏道を修めた卍楠林山安楽寺庫裏」「2年8ヶ月間、住職を勤めた恵照山日曜院」「卒業した母校・蒲郡北部小学校」の5箇所の居住地を串線する「居住地」五串、「日出」三串の超絶対確証・超実証の神風串呂です。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、三浦芳聖降誕地と出来山との神風串呂

三浦芳聖は、「三浦芳聖降誕地」(岡崎市牧平町大門)と、「出来山」(愛知県北設楽郡設楽町田峯)とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文18頁、最新の住所に改めた。

「神明」-「日出町」-「御前崎」-「恵照山日曜院」-「楠林山安楽寺庫裏」-「蒲郡北部小学校」-「幼年時代の居住地・牧平町マカガイツ」-「三浦芳聖降誕地」-「出来山」-「産場」-「五軒小屋」-「昼神」-「吹嵐」-「神宮寺」-「川浦」-「豊川」-「日出谷」-「極楽山」-「日出町」

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文18頁、一部研究の成果を盛込んだ)

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています)
(1)神明(しんめい、三重県志摩市阿児町)
日本の神道の神。天照大御神の別称。ここでは、三浦芳聖が、大宝天皇の熱祷祈願により、八幡大明神としてこの世に出現したことをあらわす。

阿児町神明
三重県志摩市阿児町(地図マピオン)

(2)日出町(ひいちょう、愛知県田原市)
「日の出」の穏文で、太陽(大日=天皇)の出生を表わす。

ここでは、三浦芳聖が、明治37年(1904年)9月17日午前6時、日の出の時刻に降誕したことをあらわす。

また日の出は「神明」「昼神」の太陽のごとき神性・神格もあらわしている。「日出谷」(東蒲原郡)「日出町」(八戸市)とで「日出」三串(ひのでみつくし)を構成している。

田原市日出町
愛知県田原市(地図マピオン)

(3)御前崎(ごぜんさき、蒲郡市西浦町) 
「神明」「昼神」三浦芳聖に対する尊称・敬称。

御前崎
蒲郡市西浦町(地図マピオン)

(4)恵照山日曜院(えしょうざんにちよういん、蒲郡市清田町門前) 
三浦芳聖が、大正15年(1926年)12月1日~昭和4年(1929年)8月24日までの2年8ヶ月間、住職を勤めた浄土宗西山深草派の寺院で、「楠林山安楽寺」の末寺院(塔頭)。

日曜院
恵照山日曜院(愛知県蒲郡市清田町門前、昭和45年頃)

「恵照山日曜院」(WEB頁)の「恵照」「日曜」は、太陽と同義語で、「神明」「昼神」の神性を昭示する地文。

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恵照山日曜院
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恵照山日曜院

安楽寺の末寺院には、このほかに「寿栄山報土院」「国豊山光養院」「清光山玉泉院」「摂取山光正院」などがあるが、「恵照山日曜院」が「神明」「昼神」三浦芳聖の神性を昭示するのに最も相応しい名称の寺院で、この末寺院にのみ院内に「薬師堂」がある。

「寺野薬師堂」には、松良天皇が薬師如来として陰祀されているが、陰暦8月8日生まれの三浦芳聖が住職を務めた「恵照山日曜院」に「薬師堂」があることは興味深い。

「恵照山日曜院」の住職時代、三浦芳聖は、京都の「西山専門学校」の教授に就任し、教育活動に専念する名目で日曜院に院代を置いて寺務一切をまかせ、自身は遠祖「長慶院法皇」の終焉の地「播州西山」の探索と、東京での研鑽および皇国維新運動に邁進した。

住職としての三浦芳聖には、文字通り「毎日が日曜院」であった。

安楽寺.日曜院
蒲郡市清田町門前(地図マピオン)

「日曜院」-「安楽寺庫裏(境内東南部)」-「蒲郡北部小学校」が一直線上に串呂している。

(5)楠林山安楽寺庫裏(なんりんざんあんらくじくり、清田町門前)
楠林山安楽寺は、三浦芳聖が、大正2年(1913年)8月24日(数えで10歳)、剃髪得度し、大正7年(1918年)3月15日、学問を修めるため上洛するまでの4ヵ年半の間、仏道修行をした浄土宗西山深草派の大寺院。

楠は、南朝(神皇正統)をあらわす。その境内東南部の生活の場であった庫裏をピシンと串呂している。

三河地方の浄土宗西山深草派の寺院は南朝系の寺院であったようだ。尊良天皇第二皇子の基良親王(良玄法親王)が開基した宮崎山伝正院も浄土宗西山深草派の寺院である。

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三浦芳聖が仏道修行をした楠林山安楽寺 本堂(2015年焼失)

清田は、母は清(子)という諺文で、三浦芳聖の、この安楽寺での仏道修行時代は、南北朝時代の動乱に巻き込まれ、幼少にして世の荒波を体験した「守永天皇」(母は藤原清子、数えの10歳で両親を失う)のご苦労を、身を以て追体験する時代であったと、私は解釈しています(松良天皇も数えの10歳で父を亡くしている)。

安楽寺での生活は、富永慶法老子(後に第88世浄土宗西山深草派総本山誓願寺管長)の指導の下、午前3時に起床、午前7時の朝食までに、清掃・洗面・読経・講義と、世にも稀な峻烈なる修行の毎日で、約5年間の間に、宗乗・余乗・論語・孟子・大学・中庸・文章規範・唐詩選等の学問を修めた。

(6)「蒲郡北部小学校」(愛知県蒲郡市清田町間堰52)
三浦芳聖が学んだ小学校。明治25年(1892年)に開校され、安楽寺門前にあったが、大正5年(1916年)9月29日現在地に新校舎が竣工された。

この時、三浦芳聖は6年生で、この新校舎での最初の卒業生である。不思議な事に、「日曜院」-「安楽寺庫裏」-「蒲郡北部小学校」が一直線上に串呂している。

(7)幼年時代の居住地(岡崎市牧平町マカガイツ19番地)
三浦芳聖が、明治42年(1909年)4月~大正2年(1913年)7月までの約4年3ヶ月間の幼年時代を過ごした居住地。この時期の三浦芳聖は、物心共に恵まれた大変幸せな幼年時代を過ごした。

マカガイツ
岡崎市牧平町マカガイツ(地図マピオン)

(8)三浦芳聖降誕地(愛知県岡崎市牧平町大門)
三浦芳聖の降誕地である。三浦家の系図によれば、天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代460年間の住居。

三浦芳聖は、明治37年(1904年)9月17日~明治42年(1909年)3月までの約4年6ヶ月間をこの地で過ごした。三浦芳聖の幸福な揺籃期である。

牧平大門
愛知県岡崎市牧平町大門

牧平大門については、下記を参照下さい。

(9)出来山(できやま、愛知県北設楽郡設楽町田峯)
「出て来ること」(出現)を意味する。天照大御神の主宰する日本神界の経綸により、高天原(極楽)からこの世に生まれて来た事をあらわす地文。

出来山
愛知県北設楽郡設楽町田峯(地図マピオン)

(10)産場(さんば、北設楽郡設楽町)廃村により消滅。
出産の場所。この地名は現在、地図検索では確認することが出来ません。

(11)五軒小屋(ごけんごや、長野県下伊那郡平谷村)
牧平町大門の代名詞。大宝天皇以来、牧平大門には家は五軒より増減できない慣行(掟)になっていた。

これは、大宝天皇の男系遺伝子を維持する目的で始められた方策で、男子の生まれない家には、この五軒の中から養子を迎えることになっていた。

この慣行は、三浦芳聖が降誕した頃までは守られていたが、現在どうなっているかは不明。

五軒小屋
長野県下伊那郡平谷村(地図マピオン)

(12)昼神(ひるがみ、長野県下伊那郡阿智村智里)
三浦芳聖の著書には「ここでは天津日嗣ということ」とありますが「明津神」「オオヒルメの神」「明神」などに通ずる地文で、天照大御神の主宰する日本神界の経綸により、この世に出現した八幡大明神・三浦芳聖の神性、霊格を昭示する地文と解読します。

昼神
長野県下伊那郡阿智村智里(地図マピオン)

(13)吹嵐(ふきあらし、長野県飯田市上飯田松川入)
台風の事。「吹嵐」の地元の方のWEB頁によると、「吹嵐というのはちょうど松川ダムのダム湖の最上段にあり、道が一段と飛び出ているためにダムが出来る前は松川の吹上が凄く、そこに当たるので付けられた」という。

「吹嵐」は、松川ダム湖の北方、大平街道と松川ダムのダム湖へつながる林道「押の沢(おしのさわ)線」との分岐付近に位置し、地図検索では「松川入財産区吹嵐事務所」を確認することができた。

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長野県飯田市上飯田松川入(地図マピオン)

大平街道を往く【吹嵐】ふきあらし(WEB頁)参照。吹嵐は、「松川ダムのダム湖へつながる林道「 押の沢(おしのさわ)線」との分岐」に在ると出ている。

画像5
吹嵐

【参照】◆吹嵐(ふきあらし)(村影弥太郎の集落紀行)

三浦芳聖の降誕時は、前夜から地元の古老が経験したことの無いほどの未曾有の大台風(牧平中の家の屋根瓦が一軒残らず捲られたという)が吹き荒れ、明治37年(1904年)9月17日午前6時、三浦芳聖が生まれると同時に風も雨もぴたりと止んで東から太陽が出てきたという。

五皇一体の八幡大明神の出現を明らかにするため、神々が用意した舞台設定が「吹嵐」(大台風)であった。

三浦芳聖の生涯で、9月17日と陰暦8月8日が一致した年は、明治37年(1904年)、大正4年(1915年)、昭和36年(1961年)の3回あったことが確認されている。

このうち昭和36年(1961年)の9月17日は、神界から三浦芳聖に「降誕時の大台風の有様を示す!」との予告があり、果たせるかな、前日の9月16日は、三浦芳聖の降誕時を彷彿とさせるような大台風(第二室戸台風)が到来した。

翌17日は台風一過の快晴で、三浦芳聖の降誕日に参集した門人らと57年前の降誕時のありさまを偲んだと、当時発行された『神風串呂』誌に出ている。

暦1904.917
こよみのページ
暦1961.9.17
こよみのページ

こよみのページ(WEB頁)参照

(14)神宮寺(じんぐうじ、長野県諏訪市中洲)
「神宮」を表わす。神宮を称する神社は、天皇や皇祖神を祭神とする規模の大きな神社が多いことから、三浦芳聖の降誕地は、天皇や皇祖神を祭神とする神宮であることを昭示していると解釈する。

ここは、信濃一の宮「諏訪大社上社本宮」(全国に1万以上ある諏訪神社の総本社。祭神、建御名方命。7年に1度御柱大祭が行われる)で有名な所である。

三浦芳聖は、晩年、愛知県豊川市市田町諏訪林37番地(現、豊川市諏訪二丁目)に道場兼自宅を建て、「三浦皇統家大神宮」と称していた。

長野県神宮寺
長野県諏訪市中洲(地図マピオン)

(15)川浦(かわうら、群馬県高崎市倉渕町)
「三浦」の諺文、符号。川を横にすると「三浦」となる。

高崎市川浦
群馬県高崎市倉渕町(地図マピオン)

(16)豊川(とよかわ、新潟県東蒲原郡阿賀町)
晩年豊川市に住んでいたことをあらわす。三浦芳聖は、昭和25年(1950年)8月13日より昭和46年(1971年)3月30日まで約20年半の間、豊川市諏訪二丁目に居住した。終焉の地でもある。

阿賀町豊川
新潟県東蒲原郡阿賀町(YAHOO!JAPAN地図)

(17)日出谷(ひでや、新潟県東蒲原郡阿賀町)
「日の出」の穏文で、太陽(大日=天皇)の出生を表わす。

ここでは、三浦芳聖が、明治37年(1904年)9月17日午前6時、日の出の時刻に降誕したことをあらわす。

また日の出は「神明」「昼神」の太陽のごとき神性・神格もあらわしている。「日出町」(田原市)「日出町」(八戸市)とで「日出」三串(ひのでみつくし)を構成している。

阿賀町日出谷
新潟県東蒲原郡阿賀町(地図マピオン)

(18)極楽(ごくらく、山形県西置賜郡小国町小倉)
「神明」「昼神」が、極楽(高天原)より出現した事を表す。
三浦芳聖は、仏教の方からいうと「八幡大菩薩」であり、「薬師如来」であり、「弥勒如来」であり、極楽(高天原)から出現したことをあらわす。

この「極楽」は、廃村になり、地図検索で確認することは困難となりましたが、「極楽」の位置は「大字小倉の南部、大滝川(荒(あら)川二次支流)の上流部にある。極楽山の西およそ900mの辺り。」(「村影弥太郎の集落紀行」)です。

😊「村影弥太郎の集落紀行」のお蔭で、この地名が存在している事が確認できました。有難うございます。

村影弥太郎の集落紀行」より転載させて頂きました。

山形県西置賜郡小国町の大滝川の上流にも「極楽峠」の地名があるほか「極楽山」が存在している。

小国町極楽山
山形県西置賜郡小国町大字新股「極楽山」(地図マピオン)

(18)日出町(ひのでちょう、青森県八戸市大字鮫町)
「日の出」の穏文で、太陽(大日=天皇)の出生を表わす。

ここでは、三浦芳聖が、明治37年(1904年)9月17日午前6時、日の出の時刻に降誕したことをあらわす。

また日の出は「神明」「昼神」の太陽のごとき神性・神格もあらわしている。「日出町」(田原市)「日出谷」(東蒲原郡)とで「日出」三串(ひのでみつくし)を構成している。

青森県日出町
青森県八戸市大字鮫町(地図マピオン)

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

三浦芳聖は、天照大御神の主宰する日本神界の経綸によって、「吹嵐」(大台風)の中、「極楽」(高天原)から、この世に出現した「神明」「昼神」であることを昭示する神風串呂です。

この神風串呂は、三浦芳聖の「降誕地牧平町大門」「幼年時代の居住地・牧平町マカガイツ」「仏道を修めた楠林山安楽寺庫裏」「住職を勤めた卍恵照山日曜院」「卒業した母校・蒲郡北部小学校」の5箇所の居住地を串線する「居住地」五串、「日出」三串の超絶対確証・超実証の神風串呂です。

「五軒小屋」「産場」「出来山」は、降誕時の環境を、「吹嵐」「日出町」「日出谷」は、降誕時の天候をあらわす地文です。「神明」「御前崎」「昼神」「神宮寺」「極楽山」は、この神風串呂上に降誕し、生活した「三浦芳聖」の神性・神格・尊称などをあらわす地文です。

大宝天皇が満16年間、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神降誕して必ず天下を平定せんことを祈念して、大般若六百巻を念書して皇威の回復を熱祷祈願した至誠が通神し、その450年後に実現した「神明」「昼神」出現を昭示する神風串呂です。

【参照】三浦芳聖が「尊良天皇の再現」として降誕した神風串呂は、
尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂1(№25)
尊良親王再現・三浦芳聖の神風串呂2(№26)」でご紹介しました。

【参照】三浦芳聖が「五皇一体の八幡大明神」であることを昭示する神風串呂は、「五皇一体の八幡大明神「三浦芳聖」立証の神風串呂(№45)」でご紹介しました。


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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