北陸朝廷について(串哲№19)
この記事は、神皇正統家極秘伝・神風串呂(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。
串呂(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。
神風串呂は、地文(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学で、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。
地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
ここでは、「北陸朝廷について」ご紹介し、詳しい解説をしています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺の末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
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1、北陸朝廷とは
『太平記』巻17の8によれば、延元元年(1336年)10月9日、比叡山において受禅の儀が行われたと出ています。後醍醐天皇は比叡山に於て譲位されたということです。
三浦家に伝承された系図によると、延元元年(1336年)10月9日、比叡山に於て三浦家の遠祖である大統宮守永親王=興国天皇)が後醍醐天皇から皇位を継承されたと書かれてありました。
この三浦家の系図を裏付けるように、新田義貞・脇屋義助らに奉戴されて北陸に落ちて行った新天皇が、天下に号令をかけた文書が3通残っています。それは、白河文書(結城文書)綸旨2通と得江文書(白鹿二年行貞奉執達状)と呼ばれる軍忠書(御教書)1通です(詳細後述)。
これらのことから、当時、北陸・東北方面に新田氏らに擁立された天皇を戴く朝廷が存在したことは明らかであるという視点に基づき、要点のみを指摘し、詳細は歴史の専門家に委ねたいと思います。
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2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
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3、北陸朝廷の天皇は誰だったのか
北陸朝廷の天皇が誰であるのかという問いに対しては、太平記に「春宮に天子の位を譲りて」と出ているため、ほとんどの方が当時の春宮(皇太子)であった恒良親王としていますが、これは金ケ崎城落城時の状況から、恒良親王は敵の目を欺くための身代わり(擬装)であったと考えています。
ここでは、後醍醐天皇が譲位したのは恒良親王ではないという視点に基づき、状況証拠を3点列挙しました。
(1)春宮恒良親王は幼少だった
この時、正中元年(1324年)生まれの春宮「恒良親王」は数えの13歳で、とてもこの難局を切り抜ける事は出来ないだろうということから、後醍醐天皇は、これまで新田義貞と行動を共にしてきた尊良親王に譲位したのであります。(神霊界からの三浦芳聖への啓示)
(2)城を脱出する機会があったのに同行していない
また太平記には、落城に先立って新田義貞・脇屋義助ら計7名が城を脱出したと出ていますが、皇位を継承したのが「恒良親王」であったなら、新天皇を託された新田義貞・脇屋義助らが「恒良親王」を金ヶ崎城に残したまま落ちていくはずはありません。恒良親王が新天皇であったのなら、この時、一緒に城を脱出しているはずであります。
この上下七人の中に、大統宮守永親王(興国天皇)と女官二名が同行していました。(神霊界からの三浦芳聖への啓示)
(3)恒良親王は落城時に蕪木浦に置き去りにされた
金ケ崎城が落城するとき、気比斎晴は、恒良親王を小船に乗せ城外に脱出、蕪木浦の漁民に杣山城へお送りするよう託したあと、再び城内に舞い戻って殉死しています。(『太平記』巻18の6、詳細後述)
恒良親王が、皇位継承者(新天皇)であったなら、漁民に託して置き去りにするような無礼なことはしないはずです。
気比斎晴は、恒良親王をお守りして杣山城に送り届けることより、尊良上皇に殉死することの方が重大事であったから、当時の武士の価値判断に基づいた当然の行動をしたのです。
恒良親王が皇位継承者でなかった事は、以上の経緯から自明の理であり、これらの状況から、神霊界から三浦芳聖にあった啓示のように、東山天皇(尊良)が、皇位を継承した天皇であったことは間違いないと考えられます。
4、東山天皇(尊良)
東山天皇(尊良)は、嘉元2年(1304年)8月8日御降誕。父は後醍醐天皇、母は御子左大納言二条為世の女・為子。皇后は右大臣西園寺公顕の女・藤原清子(御匣殿)。東山の贈名は、御陵が京都市左京区南禅寺の東山の麓にあることから神界から贈られた。
三浦家に伝承された系図によると、後醍醐天皇の次は興国天皇(守永)が皇位を継承したと書かれてあったが、神界からの霊示に基づき三浦芳聖が神風串呂で調査研究したところ、比叡山において皇位を継承したのは東山天皇(尊良)であることが判明した。延元元年(1336年) 10月9日、比叡山に於いて後醍醐天皇から譲りを受けて践祚。
延元2年(1337年)2月5日、第一皇子守永親王に譲位。
東山天皇(尊良)の在位期間は、延元元年(1336年) 10月9日から延元2年(1337年)3月6日までのおよそ5か月間ということになります。
延元2年(1337年)3月6日、金ヶ崎城が落城し、東山上皇(尊良)は新田義貞の嫡男、新田義顕らと共に壮烈無比の最期を遂げられました。
このとき、藤原行房、新田義顕、気比氏治、気比斎晴、里見義氏、由良具滋、長浜顕寛、武田與一らの将士が殉死し、多くの兵士(約300名)が自害しています。
🟡『太平記』巻18の6より(現代仮名遣い)
新田越後守義顕は、一宮の御前に参りて、「合戦の様今は是れまでと覚え候う。我等、力無く、弓箭の名を惜しむ家にて候う間、自害仕らんずるにて候う。上様の御事は、縦え敵の中へ御出候え共、失い進するまでの事はよも候わじ。只加様にて御座有るべしとこそ存じ候え。」と申されければ、
一宮、何よりも御快気に打ち笑ませ給いて、「主上帝都へ還幸成りし時、我を以て元首の将とし、汝を以て股肱の臣為らしむ。夫れ股肱無くして元首持つ事を得んや。されば吾れ命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬わんと思う也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と仰せられければ、
義顕感涙を押さえて、「加様に仕る者にて候う。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手に取り直し、左の脇に突き立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻き破り、其の刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしに成りてぞ死にける。
一宮、軈て其の刀を召され御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押し巻かせ給いて、雪の如くなる御膚を顕わし、御心の辺りに突き立て、義顕が枕の上に伏させ給う。
頭大夫行房・里見大炊助義氏・武田の与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候いけるが、いざさらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱えて一度に皆腹を切る。
是れを見て庭上に並み居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。
(原文の里見大炊助時義は義氏の誤りのようです。訂正しました。)
気比斎晴にいたっては、恒良親王を小船に乗せ城外に脱出、蕪木浦の漁民に杣山城へお送りするよう託した後、再び城内に舞い戻って殉死しています。
気比斎晴にとっては、恒良親王をお守りして杣山城に送り届けることより、尊良上皇に殉死することの方が重大事であったので、当時の武士の価値判断に基づき当然の行動をしたのです。
東山天皇(尊良)の御陵は京都市左京区南禅寺下河原町。お宮は金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)で、明治23年(1890年)9月、金ヶ崎城址に尊良親王を御祭神として建立され、官幣中社に加列されました。
明治25(1892年)年11月、恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)現在地に社殿が竣工して遷座しました。いわゆる建武中興十五社(建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社)のひとつであります。
【参照】東山天皇(尊良) (串哲№23)
5、興国天皇(義貞・義助らと城を脱出)
興国天皇(守永)は、嘉暦3年(1328年)9月、京都で降誕。父・尊良親王、母・右大臣西園寺公顕の女・藤原清子(御匣殿)。後醍醐天皇の猶子となる。第七の宮。大統宮守永親王。
越前金ヶ崎城に於て父・東山天皇(尊良)から譲りを受けて践祚。延元2年(1337年)2月5日、新田義貞、脇屋義助、洞院実世、河嶋惟頼ほか3名(計7名)が、夜陰にまぎれて金ヶ崎城を脱出、杣山城に逃れ再起を図った。
この時、新田義貞らは東山天皇(尊良)から皇位を継承した第一皇子の守永親王(興国天皇)を奉戴していた。無二心忠誠の新田氏が、天皇を置いて落ちていくはずがないからである。幼少の新天皇には藤原茂子ら2名の女官が付き従っていた。(神霊界からの三浦芳聖への啓示)
延元3年(1338年)閏7月2日、新田義貞が戦死したので官軍は壊滅し、興国天皇は新田義貞の旗下にあった神保安芸守に擁立され、女官らと共に越中守山城に入ったが、ここもわずか40日で落城したので、森茂(岐阜県飛騨市神岡町)に藤原茂子と潜伏、その後、宗良親王を頼って井伊谷城へ入る。(神霊界からの三浦芳聖への啓示)
以後各地を転戦。正平23年(1368年)3月23日、宗良親王の第一皇子・興良親王(小松天皇)に譲位。
興国天皇(守永)の在位期間は、延元2年(1337年)2月5日から正平23年(1368年)3月23日までのおよそ31年間です。
従って、延元2年(1337年)2月9日付けの右衛門督名の綸旨は、興国天皇(守永)が出された綸旨と考えられます。 (詳細後述)
また、白鹿2年(1346年)に越前の得江九郎頼員あての中院右中将名で出された「御教書」(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)も、興国天皇(守永)が出されたものと考えられます。(詳細後述)
【参照】興国天皇(守永) (串哲№52)
6、北陸朝廷の存在を証明する3通の古文書
新田義貞・脇屋義助らに奉戴されて北陸に落ちて行った新天皇が、延元元年(1336年)11月12日、越前敦賀の金ヶ崎城において左中将(新田義貞)の名前で、延元2年(1337年)2月9日には、右衛門督(脇屋義助)の名前で、天下に号令をかけた文書(いずれも結城宗広宛の綸旨)が残っています。(白河文書または結城文書といいます。)
また、白鹿2年(1346年)に越前の得江九郎頼員あての中院右中将名で出された「軍忠書(御教書)」が残っています。(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)
(1)白河文書1(尊良天皇の綸旨)
延元元年(1336)11月12日付けの「尊氏直義以下逆徒追討の事」という表題で「結城上野入道館」(結城宗弘)あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨で「左中将」(新田義貞)の名前で通達されている。
本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになる。
この越前国鶴賀津(金ケ崎城)から綸旨が発せられた、延元元年(1336)11月12日の時の天皇は東山(尊良)天皇です。従って、この綸旨は、東山(尊良)天皇が出された綸旨ということになります。
(2)白河文書2(興国天皇の綸旨)
延元2年(1337)2月9日には、同じく「結城上野入道館」あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨が、「右衛門督」の名前で通達されています。
本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになります。
延元2年(1337)2月9日、この時の天皇は、興国天皇(守永)です。
(3)白鹿二年行貞奉執達状(興国天皇の文書)
「得江文書」は、前田旧候爵家が所蔵していた古文書で、白鹿2年(1346)卯月20日付けで得江九郎頼員あてに出された「軍忠書(御教書)」で、中院右中将の名前で通達されています。現在この文書は「白鹿二年行貞奉執達状」と呼ばれ、尊経閣文庫に保存されているほか、東京大学史料編纂所にも写真が有ります。
1346年4月20日付けということは、興国天皇(守永)は、その頃、霊山城(福島県伊達市と相馬市との境)、宇津峯城(福島県郡山市と須賀川市の境)等に入っておられます。
従って、この文書も、延元2年(1337)2月9日の綸旨(白河文書2)同様、興国天皇(守永)が発行された文書という事になります。
(4)藤原石山氏の解説
藤原石山著『南朝正統皇位継承論』には、次のように述べられています。
7、『南北朝時代史』(田中義成)
田中義成博士は、『南北朝時代史』(大正11年/1922年)に於いて、比叡山に於て譲位があった根拠として下記のように述べ、後醍醐天皇の譲位はあったと思われると結論されています。
【参照】田中 義成著『南北朝時代史』第43章 後醍醐天皇尊氏と御和睦
8、皇子たちの南北朝(森 茂暁)
森茂暁氏は『皇子たちの南北朝』に於いて次のように述べています。
「恒良の帝位が自然消滅したのち、このような私年号が使用されたことは注目される。」とは、延元元年(1336年)11月出現した北陸朝廷が1346年(南朝正平元年)にも引き続き存在していた証拠である。
9、参考文献
🟡『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す-神皇正統家極秘伝の神風串呂(串呂哲学と地文学)及皇統家系譜其他文献を以て』(三浦芳聖 神風串呂講究所 1970年)
🟡『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(三浦芳聖著、神風串呂講究所、1955年~1971年)
🟡『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(中西久次郎、三河吉野朝聖蹟研究所、1940年)
🟡『南朝正統皇位継承論』(藤原石山、南朝史学会、1988年)
🟡『三河に於ける長慶天皇伝説考』(藤原石山、南朝史学会、1979年)
🟡『長慶天皇の三河遷幸と諸豪の動き-三河に伝えられる南朝の秘史』(藤原石山、南朝史学会、1982年)
🟡『隠れ南朝史―富士山麓が陰の本営だった』(加茂喜三、富士地方史料調査会、1979年)
🟡『富士〝隠れ南朝〟史』(加茂喜三、富士地方史料調査会、1987年)
🟡『南北朝実相史』(吾郷清彦、富士地方史料調査会、1987年)
🟡『幻の白鹿王朝 金ケ崎城』(村田武、鳥影社、2006年)
🟡『南北朝時代史』第43章(田中義成、講談社、1979年)
🟡『南北朝史論』(村田正志、中央公論社、1949年)
🟡情報拡散のお願い
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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