後醍醐天皇と三浦芳聖(神皇正統嫡皇孫)
🟡初めに
串呂哲学研究会 鈴木超世志
神皇正統第96代・第49世「後醍醐天皇」と、その嫡皇孫・三浦芳聖師との関連事項について、三浦芳聖師が書き残した「神風串呂」他の資料から、主なものを抜き書きし、まとめてみました。
そもそも後醍醐天皇の御神霊が三浦芳聖師に関与して来られたのは、戦後の事とお聞きしています。
後醍醐天皇の御神霊は、始めの頃は芳聖師に向って「三浦!」とお呼びになられましたが、芳聖師のご修行が進んで霊格が向上した晩年の頃には「三浦先生!」と敬称を付けて恭しく呼び掛けられたようです。
また、芳聖師の神宮御陵参拝などの出張時に、後醍醐天皇がタクシーの助手席に乗られて先導役を勤められたこともありました。
出口王仁三郎の大本教お筆先(大正8年1月27日)に、「栄え三浦の皇統家は、日夜久睦じく神国の、神代の姿備わりて・・・」とあります。
この「後醍醐天皇と三浦芳聖(神皇正統嫡皇孫)」により、神代を彷彿とさせる三浦芳聖師の御生前の生活の御一端をご紹介することができれば、これに勝る喜びは有りません!
奇しくも本日(2023年9月27日)は、後醍醐天皇を奉斎する「⛩吉野神宮」の例大祭「後醍醐天皇祭」の当日であり、後醍醐天皇御降誕735周年にして第684回目の御命日祭であります。
後醍醐天皇の御冥福と神皇正統三浦皇統家の弥栄を、心より祈念申し上げる次第です!
1、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
🟣第96代天皇、および南朝初代天皇
🟣在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月26日(延元4年/暦応2年8月15日)
🟣大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子
🟣諱は尊治(たかはる)
🟣1288年11月26日(正応元年11月2日)- 1339年9月27日(延元4年8月16日)
🟣治天
1321年12月28日(元亨元年12月9日)- 1339年9月26日(延元4年/暦応2年8月15日)
🟣御陵は奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)
🟣神宮は⛩吉野神宮(明治22年/1889年に同上町に建立)
秋の大祭(後醍醐天皇崩御日)は、9月27日(陰暦8月16日)
🟡後醍醐天皇の詳細は下記を参照下さい。
2、萩村時代(豊川市萩町)
三浦芳聖師は、昭和20年(1945年)10月下旬、愛知県豊川市萩町の寓居に於て、早朝6時から夜11時まで、大祓神勅奉唱の祭祀と山陰川の清流での禊祓に打ち込んでいました。
大祓神勅奉唱の祭祀は、「大祓祝詞を奏上する時、天津祝詞(太祝詞)に天壌無窮の神勅や斎鏡斎穂の神勅を九回唱える神道祭祀で約一時間ほど掛かる」を一日8回実施していました。
ここでの、祭祀中に、神界から芳聖師に様々な霊示や伝法がありました。この時期は下記の神風串呂があるせいか、後醍醐天皇が毎日のように御降臨になられて、芳聖師に様々なことを教えて下さったそうであります。
「⛩吉野神宮」(奈良県吉野郡吉野町吉野山)-「萩村寓居」(愛知県豊川市萩町上近久)-「高天原」(茨城県鹿嶋市)
下記に、後醍醐天皇の御神諭の中から、主な逸話をご紹介致します。
(1)興国天皇(守永)の動向(生涯の歩み)が明らかに
「太平記」によると、延元2年(1337年)2月5日、新田義貞、脇屋義助、洞院実世、河嶋惟頼ら7名が、越前の国、金ヶ崎城(福井県敦賀市)を脱出して杣山城(福井県南条郡南越前町大字瓜生)に逃れ再起を図ったと記録されています。
後醍醐天皇の御神霊から三浦芳聖師への霊示により、この7名の中に、御父・尊良天皇から皇位を継承した興国天皇(守永/当時数えの10歳)と女官2名が含まれていたことが明らかとなりました。
また、興国天皇(守永)は、杣山城が陥落後は、越中(富山県)・守山城主の神保安芸守を頼って守山城へ移駐されました。
しかし、その守山城もわずか40日で落城したので、森茂(岐阜県飛騨市神岡町)に女官の花山院藤原茂子と潜伏し、最後は静岡県の井伊城にいた叔父の宗良親王を頼って井伊谷へ移駐潜行したことなどが明らかとなりました。
森茂とは、守永天皇と女官の花山院藤原茂子が潜伏した事を表わす地名で、神岡とは神(天皇)がいた岡(場所)を表わす串呂哲学上の地文です。
「元弘日記裏書」では、「延元3年(1338年)9月11日、尊澄法親王、尊良親王第一宮、遠江国井伊城に着御」と記録されています。
(宗良親王とともに伊勢大湊を出航するも、伊豆崎にて大風に遇い、遠江の井伊城に入る)
この尊良親王第一宮とあるのが興国天皇(守永)のことです。
はたして、宗良親王とともに船に乗っていたのか、森茂(岐阜県飛騨市神岡町)から直接井伊城に移駐されたのか、判然としませんが、芳聖師への霊示では、森茂(岐阜県飛騨市神岡町)から井伊城に移駐されたようです。
戦乱中であった当時の状況を考えると、幼年の興国天皇が女官の藤原茂子と二人で吉野山へ向かうことは危険極まりないことですので、直接井伊城に移駐されたとする霊示の方が真実ではないかと拝察しています。
(2)近松敬次郎氏との出会い
昭和23年(1948年)4月、三浦芳聖師が萩村上近久の寓居で修行中、後醍醐天皇の御神霊が御降臨になり、
「兵庫県加東郡(現在加東市)滝野町上滝野に近松敬次郎という人がいるから会いに行くように」という霊示がありました。
芳聖師が往復はがきで連絡すると近松敬次郎氏から返事が来たので、門人3名と共に近松氏を訪問することになりました。
近松敬次郎氏は、滝川宗勝 著「勅語信仰の体験」(廣文堂書店)に実名で出ている霊能者で、芳聖師が訪問した当時は、西山の所有者中、唯一人の存命者でした。
この時、芳聖師は数えの45才。近松敬次郎氏は67歳で奥さんと二人でアユ料理・丸八旅館を経営しており、子供はありませんでした。
芳聖師が、丸八旅館に近松敬次郎氏を訪ねると、近松氏は挨拶もそこそこに神棚に向かって拝礼されました。
その様子は「神前で二拍手し、ハイッ!ハイッ!」と唱えると、後醍醐天皇の御神霊が近松氏に懸かって霊媒の近松氏の口を使ってお告げが示されるという方法で、この時は「西山へ来い、西山で話がある!」という霊示がありました。
そこで近松氏は、芳聖師らと共に加西市青野町の「西山」に行きました。
すると近松氏の霊眼に「西山聖地」を中心に、菊のご紋章の入った紫色の幕が張られ、天照大御神を中心に歴代皇霊が両脇に整列しておられる映像が霊視されました。
近松氏は「この霊地(西山)に関与して以来、このような高貴な霊視を見せて頂いたのはこれが初めてだ。一体貴方はどういう方ですか!」と驚かれました。
更に後醍醐天皇から「近松敬次郎!長い間西山を守ってくれてご苦労であった。功績により日敬皇子の称号を与える。以後この西山の事は、すべて朕の嫡皇孫・三浦先生にお任せてしてくれ!」という霊示があり、芳聖師は、近松氏から、この「西山聖地」の管理を任されることになりました。
【参照】西山聖地(兵庫県加西市青野町)
(3)後醍醐天皇の神霊写真の撮影に成功
昭和31年(1956年)11月3日、三浦芳聖師は後醍醐天皇塔尾御陵に於て、後醍醐天皇の神霊写真の撮影に成功しています。
この神霊写真は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章20頁の2に掲載されているほか、同著デジタル復刻版 №5 第一章 尊良天皇顕彰の神風串呂(第2分冊)にも掲載されています。
3、市田町諏訪林時代(豊川市諏訪二丁目)
(1)後醍醐天皇の禅譲(皇位継承)についての霊示
芳聖師が、豊川市市田町諏訪林37番地に転居した直後の昭和25年(1950年)8月15日、門人2名を侍らせて大祓神勅の祭祀を厳修していると、丁度正午から一時間「後醍醐天皇」が、芳聖師に神懸かりされ、いろいろ御霊示がありました。
その中で特筆すべき事項は、後醍醐天皇が「次の皇位継承者は守永親王に譲位する事という条件はつけたが、私が譲位したのは尊良親王だけである。他には誰にも譲位していない。どうか信じてもらいたい!」と芳聖師に明言されたことです。
芳聖師は、そののち、尊良親王の串呂を解明し、昭和40年(1965年)4月7日(陰暦3月6日)、尊良親王の御命日に「尊良親王は後醍醐天皇の皇位を継承した天皇である」ことを公表しました。
(2)三浦芳聖師の夢枕に立たれた後醍醐天皇の御神霊
三浦芳聖師が愛知県知多郡東浦町の道場支部(門人宅)に宿泊中の昭和41年(1966年)9月17日、芳聖師の睡眠中に後醍醐天皇の御神霊が枕辺にお立ちになって下記の様な夢のお告げがありました。
「どうか一度吉野の蔵王塔尾御陵へ門人をお遣わし下さって御陵の掃除をして頂きたい!」
その当時、芳聖師は、御祖大神の御神示により後醍醐天皇御陵へは門人を代参させていたのですが、後醍醐天皇からのご依頼により、およそ七ヶ年ぶりの昭和41年(1966年)9月30日(陰暦8月16日、後醍醐天皇の第627回目の御命日)、門人10名と地元奈良県の戦前からの知己で自動車の送迎奉仕者「寺尾務」氏ご夫妻との計12名と共に、後醍醐天皇塔尾御陵へ参拝されました。
この日は、芳聖師がこれまで塔尾御陵へ参拝した中で、最高の一点雲無しに澄み切った超快晴の天候で、祭祀中に図らずも天照大御神が御降臨になって「太陽凝視直拝の祭祀」を御神命(ご許可)になられました。
帰宅後、芳聖師が、随行した門人らに参拝記念の色紙を授与する為、後醍醐天皇の御神霊に、色紙に書く御製の希望をお聞きした所、後醍醐天皇の御神霊は下記の御製をお選びになられました。
皆人の 心を磨け 千早ぶる 神の鏡の 雲る時なく
不思議な事には、芳聖師がこの色紙を認め、落款印を押す時に、一枚一枚に「ピシン」という神音が鳴りました。芳聖師は、「後醍醐天皇が色紙に、たましいを込められたのだ!」と述べています。
(「神風串呂」133号/昭和41年(1966年)10月27日発行)
本年2023年は、昭和41年9月30日と同様、後醍醐天皇の御命日(陰暦8月16日)と陽暦の9月30日とが一致する不思議な巡りあわせです。因みに、毎月30日は、三浦皇統家の月次祭の日であります。
(3)神宮御陵参拝の先導役を勤められた後醍醐天皇の御神霊
昭和43年(1968年)8月18日の午前1時過ぎ、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号線上において突発した「飛騨川バス転落事故」で、下記の神風串呂が解明されました。
この神風串呂は、今世のご修行により芳聖師が最高位の霊格(弥勒)に昇格(登極)したことを昭示するものであります。
芳聖師は、この串呂が解明されたのち、⛩皇大神宮内宮を始めとする各神宮御陵に「弥勒登極」の報告参拝を行っていました。
昭和44年(1969年)1月20日には、京都の神宮御陵へ「弥勒登極」の報告参拝に行かれた芳聖師は、⛩御香宮神社、⛩伏見稲荷大社、⛩賀茂御祖神社(⛩河合神社)と報告参拝し、当日午後、京都市右京区の後嵯峨天皇・亀山天皇の両御陵に報告参拝する為、「嵐山」でバスを下車しました。
すると、後醍醐天皇の御神霊が衣冠束帯のお姿で御出現になられ、芳聖師御一行の八歩前を御先導され、両御陵での祭祀中も御神霊は傍に御侍立されておられました。
後醍醐天皇の御神霊が、このように、芳聖師御一行の御先導役を勤められたのは、前年の昭和43年(1968年)12月27日の⛩皇大神宮内宮参拝に続いて二回目でした。
(4)門人を推挙された後醍醐天皇の御神霊
昭和44年(1969年)1月某日、三浦皇統家の朝拝時に、芳聖師が、当時入門志願中の二名の者について、入門を許可すべきかどうかお伺いを立てると、後醍醐天皇の御神霊が「皇祖大神」として御出現になり、
「この二名の者の入門志願は、後醍醐天皇の御心であります。将来、芳聖師の御弟子として大成した暁には、必ず役に立つ者たちゆえ、ぜひとも入門を許可して頂きたい!」とお願いされたことがありました。
「神風串呂」(第159号/昭和44年/1969年/2月28日発行)
4、後醍醐天皇の神風串呂
後醍醐天皇の神風串呂の一部をご紹介しています。ご興味のある方は是非ご参照下さい。
🔴バックナンバー(総合)
🟡情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
🟡前号(№368)
関東大震災から満百年!未曽有の大地震はなぜ起きたのか!その霊的根源を明かす!
🟢次号(№370)
💟豊葦原の瑞穂の国を取り戻す!
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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