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南朝正統皇位継承論11-天照大御神の両朝融和計画と元伊勢クシロ
🎀天照大御神の両朝融和計画と元伊勢クシロ
1、崇神天皇、三種の神器を奉遷
三輪義熈著「神皇記」や富士古文献には、第10代崇神天皇の御代、富士山麓の「阿祖山太神宮」で祭祀していた天照大神の神霊と「三品の大御宝」を大和地方に奉遷(移動)した事蹟が詳細に語られています。
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崇神天皇の五年、天皇は無謀にも富士の天都(高天ヶ原)より天照大神の神霊を奪取し、皇居の近くの笠縫の地(奈良県磯城郡大三輪町茅原)に新宮を建てて此処に奉遷する。そして、これを「天照皇太神宮」と呼ばしめ、これまで富士高天ヶ原にあった皇祖の神廟は、これを古宮と称させてしまった。
崇神天皇の5年3月3日、勅使を富士高天ヶ原に派遣して神器を拝受し、大和国笠縫の里に建てた天照大神の新宮に納めたのが4月9日で、皇女豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命をして祀らせ、6月7日より神宮の庭前に祭壇を設け、天下の名工を召して阿祖山太神宮に伝わる「三品の大宝」に倣い、新しい「三品の大宝」を作製させて皇城の奥殿に納め天皇代々守護の大御宝と定めた。神代より富士高天ヶ原に伝承されてきた「三品の大宝」は、笠縫の里の天照皇太神宮にその神霊として納められた。
神器の奉納について、「富士古文献」の記述は極めて穏やかに大和朝廷の指示に従って進められたように記されているが、それは表面のことで実際には無事に済まされてはいなかった。
「日本書紀」によると、崇神天皇の五年、「国の内に疾病多く、民の死亡甚だ多し、六年百姓流離、或は背叛するものあり、その勢い仲々治め難し。」とある。明らかに反乱のあったことを明記している。
阿祖山太神宮で祭祀されていた天照大神の神霊と「三品の大宝」を大和地方に移した後、崇神天皇の御代がどのようであったかは、日本書紀に明記されていて、『崇神天皇- Wikipedia』には下記の様に出ています。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。 即位7年、崇神天皇は、大田田根子に大物主神を市磯長尾市に倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせれば国は治まると云うお告げを受け、実行したところ、お告げ通りに国が治まった。(後半要約)
この「大物主神」「倭大国魂神」は、一体如何なる神かと云うと、富士高天ヶ原の阿祖山太神宮大宮司職で、神皇ともいうべき地位にいた大国主命の後裔であったのである。(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』36頁要約)
以上の資料を総合して考察しますと、下記の様にまとめることが出来ます。
🟡崇神天皇の御代(崇神五年)、富士阿祖山太神宮で祭られていた天照大神の神霊と「三品の大御宝」を笠縫の里に移し、天照大神と大国魂神の二神を皇城内で祭祀し、宮中には模造品(形代・レプリカ)を作製して納めた。
その結果は、宮中で祭祀していた天照大神と大国魂神の二神の神威が強すぎて同床共殿にお祭りする事ができず、また疫病や飢饉により多くの死者が出たり農民が逃亡したり各地で反乱があったため、崇神天皇はその状況を畏怖し、崇神七年、「天照大神と大国魂神の二神を」を皇城外に出してお祭りすることにした。
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、大田田根子に大物主神を市磯長尾市に倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせたところ国は治まった。
大物主神、倭大国魂神は、阿祖山太神宮大宮司職で、富士王朝の神皇格の神であった。
【参照】鹿島昇『日本王朝興亡史』では崇神天皇は百済王近肖古であると述べています。
2、天照大神の両朝融和計画と元伊勢クシロ
こうした状況から推察すると、天照大神は、崇神天皇が天照大神の遺勅を守らず、「三品の大宝」を富士阿祖山太神宮から大和朝廷に奉遷した事に非常にご不満であったことは推察できよう。(以下は推察に依る仮説です!)
元は一つであった大和朝廷と富士王朝の対立(兄弟喧嘩)が「三品の大宝」の大和への奉遷という形で露呈されたばかりでなく、全国各地に反乱が起きる深刻な状況を前にして、両朝の皇祖神である天照大神は、神計りに計られ、両朝を融和合一させる計画(神策)を立てられた。
それは、遠い将来、両朝の嫡孫を婚姻せしめて血統を撚り合わせ、名実共に両朝を融和合一させる神策で、神武天皇から数えて百代までは現王朝の存続を許すとし(百王説)、それ以降は遺勅通り「三品の大宝」を阿祖山太神宮の大宮司家の嫡孫に祀らせようとお考えになられた。
その神策とは、下記の5つです!
(1)両朝の嫡孫が婚姻し、大宮司家の姓「三浦」を名乗る。
(2)大和朝廷はおよそ百代で天之岩戸籠りする。
(3)大和朝廷を乗っ取る悪役として武家を設定(悪しかが氏)。
(4)上記の事績を証明する神風クシロ(串呂)を構築する。
(5)劇的に進行するよう神策は極秘計画とする。
そこで、長年月を掛けて佐久久斯侶(さくくしろ)即ち神風串呂を構築することになられ、その為の各地巡行が元伊勢伝説と言われる事蹟であります。
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崇神天皇の御代に豊鍬入姫命に託して笠縫邑にお祀りした天照大神は、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とされ、第11代垂仁天皇の御代、倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年かけて現在地の三重県伊勢市の伊勢神宮に遷座された。(『ウィキペディア』元伊勢、要約)
元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴氏によれば、天照大御神が、各地を巡回したのは、元伊勢神宮による結界を張るためで、古神道では結界のことをクシロといい、「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べています。(『続・太陽の神人黒住宗忠』146頁、たま出版)
この「クシロ」は串呂(かんろ)であり、皇室守護の結界を張るためだけでなく、神風串呂を構築する為だった事は、倭姫命が、近畿地方のみならず、愛知県三河地方(幸田町高力熊谷の高力神明宮、田原市神戸町の神明社)を巡回し、神明社の由来記には神明社の次に「遠江国浜松へ遷幸された」と記されていることから断言できます。
天照大神は、倭姫命と共に各地を巡回して、地方の神々に串呂構築への協力を要請されたのだと推察致して居ります。
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愛知県田原市 神戸の神明社(ゆるり♪のぼちぼちゆこう〜ꕤ*。゚)
倭姫命が巡回された、⛩元伊勢内宮、高島市の⛩白鬚神社、三重郡の御在所山、田原市日出町、神戸町など、重要串呂地点である事が判明しています。
3、両朝融和計画の起動
神武天皇からおよそ百代目の御代に近づいた第96代後醍醐天皇の御代、天照大神の両朝融和計画が起動された。それを昭示するのが下記の串呂である。
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延命長寿法を昭示する神風串呂 (№16)
「⛩多賀大社」-「西山」-「助命」-「西山」-「後醍醐天皇塔尾陵」-「山西」-「三浦」 (西山三串の絶対確証の神風串呂)
この串呂は「延命長寿法を昭示する神風串呂」としてご紹介しましたが、第96代後醍醐天皇の御代から、大和朝廷の天之岩戸籠り(西山)への計画が開始された事を昭示する神風串呂と解釈することも出来るのです。
「神皇正統の天皇(大日)は、後醍醐天皇を最後に西山に没し、民間に隠れた(天子蒙塵)が、その皇統の命脈は保たれ(助命)、三浦と称している(富士大宮司家の三浦佐久姫が天皇を助けた)。多賀大社は、皇祖神であり且つこの串呂の守護神で、西山三串の絶対確証の神風串呂です。
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両朝融和計画の第一幕は「大和朝廷の天之岩戸籠り」です。「助命」とは、皇統は断絶しない、皇孫は三浦と名乗って続くと解釈します。
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この串呂の二つ目の「西山」は、前回の記事「神皇正統家の天之岩戸籠りの原因」で取り上げた下記の「西山」(奈良県宇陀市大宇陀)です。
御鏡は石鏡だった事を昭示する神風串呂(№17)
⛩橿原神宮-大神-西山-⛩皇大神宮内宮-石鏡町
天照大神の両朝融和計画が実現するためには「大和朝廷の天之岩戸籠り」は必須事項でした。
「兄弟牆(かき)に鬩(せめ)げども、外その務(あなどり)を禦(ふせ)ぐ」のことわざ通り、外敵に攻められ、危機に陥らねば兄弟げんかは終わらないからです。
🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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