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明治天皇の神風串呂5(美星町明治と松良天皇御陵)

💟このオンラインブックは、串呂哲学の創始者・三浦芳聖師が解明した「明治天皇の神風串呂」を分かりやすく解説したもので、「明治天皇の神風串呂4(美星町明治と井伊谷宮)」の続きです!

前号に引き続き、明治天皇-南朝皇胤説を明確に昭示する神風串呂をご紹介しています。

明治天皇

日本の近代化(人民解放戦争)の為に「南朝革命」を旗印に身命を賭して戦った維新の志士たちへの感謝と慰霊の気持ちを表わす為に明治維新は南朝革命である事を考察しています。

南朝神社(建武中興十五社)の建立について研究をすすめたところ、明治新政府は維新が成ると同時に南朝神社の顕彰を始めたことが明らかとなりました。

問題は明治維新のスローガンであった「南朝革命」を天下に公表しなかったことで、これは維新で身命を賭して戦った先人(英霊)たちに対する裏切り行為であります。

天佑神助を得られない我が国の、今日の惨状は、「維新が南朝革命である事を天下に公表して南朝正統家を世に出せなかったこと」で、解放戦争であった南朝革命が中途半端に終わったまま今日に到るという事です。

ぜひご一読下さい!


1、南朝神社建立に見る明治天皇の出自

皇族を祭神とした南朝神社(建武中興十五社)他の建立年次を調べて見ますと下記のようになります。【参照】『ウィキペディア』建武中興十五社

鎌倉宮(護良親王) 明治2年(1869年)
井伊谷宮(宗良親王) 明治2年(1869年)
後醍醐天皇社  明治6年(1873年)・・・吉水院が神仏分離により後醍醐天皇社となる。後に吉水神社と改称。建武中興十五社ではない。
八代宮(懐良親王) 明治17年(1884年)
吉野神宮(後醍醐天皇)明治22年(1889年)
金崎宮(尊良親王) 明治23年(1890年)

こうして考察しますと、南朝神社(建武中興十五社)の建立から、明治天皇の出自が南朝「光良親王」の王孫であるとする「明治維新南朝革命説」は合理的な解釈だと思われます。


2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


3、美星町明治と松良天皇御陵との神風串呂

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