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💟第23話 三浦家系譜の鑑定を仰ぐ-田中伯爵に誓書を騙し取られる
🟡三浦家系譜の鑑定を仰ぐ
昭和2年(1927年)、宮中顧問官・山口鋭之助に師事して国学や大国隆正の「本学」を学び、師弟の情が水魚の交わりの如く親密となった昭和4年(1929年)2月、芳聖は熟慮の末、思い切って三浦家系譜を地下から掘り出し山口先生の鑑定を仰ぐことにしました。
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🟠明治政府は、明治10年(1877年)「大政紀要」に於て「南朝が正統・北朝が閏統」と言う裁可を下し、
🟠同年、元老院発行の「纂輯御系図」では、後花園天皇の父・後崇光院 伏見宮貞成親王を「母は西御方・父不詳」と記述し、
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🟠南北朝正閏論が沸騰した明治44年(1911年)には、明治天皇の聖断で南朝が正統であると裁定し、帝国議会で南朝を正統とする決議をおこないました。
🟠また、南朝神社と呼ばれる建武中興十五社を建立して、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などの事蹟を顕彰しています。
🟠大正13年(1924年)6月30日に掘り出した三浦家系譜には、三浦家は後醍醐天皇から三種の神器を内伝に継承した南朝正統家であると記録されていました。
🟠また大正15年(1926年)10月21日には、三浦家遠祖・長慶天皇が皇統譜に登列されました。
🟠その上、三浦家系譜が串呂地文に昭示されていることが明瞭に認識できました。
こうした一連の状況を踏まえ、芳聖は、閏統(北朝)の天皇が「萬世一系の天皇」として統治する国の一国民として生きる事に「大矛盾」を痛感し、悩みぬいた末に、命懸けで鑑定を仰ぐことにしたのでした。
この時、三浦家系譜の鑑定を依頼された山口鋭之助は、びっくりして「私の一存では何ともお答え出来ないから、私の大先輩で、かつては宮内大臣をなさった、明治維新の勤皇の志士であった『田中光顕伯爵』が、まだ御生存中であるから、此の方にお尋ねして見よう」という事になり、田中伯爵のお宅へ電話で連絡を取り、芳聖を連れて行って下さったのでした。
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🟡これは我が国の一番正しい歴史だ
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芳聖が「田中光顕伯爵」(当時数えの85歳)に三浦家系譜を見せたところ「田中伯爵」は、三浦家系譜に記載されている皇位継承の歴史について
『これは我が国の一番正しい歴史だ!、確かに太平記をみても比叡山に於て「後醍醐天皇」が春宮に御位をお譲りになったと書いてある。学者間に於ては、之は「恒良親王」に御位をお譲りになったと云われているが、あなたの所の記録を見れば、「尊良親王」の第一皇子「守永親王」が「後醍醐天皇」の第七の宮として「大統宮」となっていて「後醍醐天皇」には「守永親王」に御位をお譲りになったと書かれている。これが正しい歴史であろう。』
と鑑定し、さらに続けて
『けれども今現在は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り絶対に千古不磨の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の欽定憲法に依って大日本帝国の国體は永遠に確立せられたのである。だからあなたが今此の事を発表したならば、それこそ「幸徳秋水」同様闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて極刑に処せられることは火を見るよりも明らかなことであるから、あなたのお父上がおっしゃった通り、早く埋蔵して何人にも一切語られぬがよろしい。』
と述べたので、芳聖は憤然として、
『伯爵は「之は日本の正しい歴史だ」とご鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表する事が欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表する事が極刑に処せられるような欽定憲法であるならば、今このまま直ちに私を司直に渡して、極刑に処して頂きたい。』
と、開き直ったところ、田中伯爵は顔色蒼然となって、暫く無言のままでしたが、
『私は六十年来、曽って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には「西園寺公望公爵」只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました。』
と前置きして、明治維新が南朝革命であったことを告白したのでした。
(出典、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文)
🟡田中光顕伯爵の告白・明治維新は南朝革命
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この伯爵の告白証言の続きは、下記ブログに記載されていますので、ご興味のある方は、ぜひ御一読ください。
🔴この田中光顕伯爵の打ち明け話をまとめると、下記のようになります。
(1)明治天皇は、孝明天皇の皇子ではなく、後醍醐天皇第11番目の皇子「満良親王」のご王孫で、大江氏の滅びたあと、その子孫毛利氏が長州の萩に於いて御守護申し上げて来た。
(2)黒船来航以来の国難に当って、この南朝のご王孫を擁立しての王政復古勤皇運動が明治維新を推進した幹部の指導原理であった。
(3)吉田松陰亡き後、この勤皇の志士を統率した長州の桂小五郎がこの事を打ち明けると、南朝の大忠臣菊池氏の子孫であった西郷南州が、この指導原理に感銘して賛同し薩長同盟が成立した。
(4)明治維新が成立すると同時に、明治天皇が後醍醐天皇の皇子宗良親王の井伊谷宮をお祭りされた事実。(明治2年、本宮を造営)
(5)南朝の御子孫である明治大帝のご聖徳により日清・日露の両戦争に勝利した事績。
(6)南北朝正閏論争で国論が沸騰した時、明治大帝は自ら南朝が正統であるとご裁定になった事実。
(7)日本が劣等国から世界の三大強国になったのは後醍醐天皇のご王孫「明治大帝」のご聖徳の致す所である。
🟡田中光顕伯爵に誓書を騙し取られる
明治維新が後醍醐天皇 皇子 満良親王の御王孫を擁立しての南朝革命であったという証言を拝聴し、血統上の懊悩が雲散霧消した芳聖は、田中伯爵の要望で「以後、三浦家系譜は秘蔵して何人にも語らない」事を誓約し、誓書まで提出させられたのですが、ここには得体のしれない謀略的陥穽(落とし穴)が潜んでいたのでした。
🔴それは、大正天皇が御不例で子種が無く、明治天皇の血統は二代で断絶していた事実の隠蔽でした!
何が「ご聖徳の致す所」でしょうか!吐き気がします!
この件は、下記の鬼塚英昭の著書やDVDで明らかにされています。
🟤『日本のいちばん醜い日』(2007年7月21日、成甲書房)
🟤『日本の本当の黒幕』
上巻 龍馬暗殺と明治維新の闇(2013年7月6日、成甲書房)
下巻 帝国の秘密とテロルの嵐(2013年7月6日、成甲書房)
🟤『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』[DVD] (2011年7月15日、成甲書房)
🔴これらの情報は、南朝革命・王政復古に命を捧げ、裏切られて鬼神と化し塚(墓)にて怒れる英霊たちの無念の思いが凝って昭示されたものです!
元宮内大臣であった田中光顕伯爵は、大正天皇が御不例で子種が無く明治天皇の血統は二代で断絶していた事実を知りながら、真実を告げず、芳聖から誓書を騙し取ったのです!
🔴日本人はこの件から目を背けてはならない!
私は、芳聖を騙した田中伯爵の罪は極めて重いと思う。今日の我が国の惨状は、この田中伯爵の謀略的証言に起因すると確信しています。
私は、明治天皇の血統は二代で断絶したという情報を、今から半世紀以上も前の昭和45年(1970年)に、三浦芳聖から聞いて知っていました。情報源は神界から芳聖への霊示です。霊界物語です!
私は、まさかこの宮中の超機密事項が、21世紀になって活字や動画になって出て来るとは夢にも思いませんでした。為政者は、日本の神々を舐めてはいけないのです!
🔴日本国の再興を願い、日本国民の真の幸せを願うなら、日本人はこの件から目を背けてはならないと思います!
💟天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮により、三浦芳聖は明治維新が南朝革命であった超機密情報を知る事が出来、血統上の懊悩は雲散霧消しましたが、田中伯爵が真実を告げなかったため、その後の人生で苦戦を強いられる事となりました。
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