三浦芳聖伝 48、豊川市へ転居(串呂哲学研究ノート№170)
豊川市へ転居
1、日月の滝での最後の禊行
昭和24年、芳聖は、古澤禎康・鈴木護人両名の門人を随行せしめて、日月の滝へ最後の禊(みそぎ)に行きました。(芳聖は数えの46才でした)。
この日、天照大御神さまが、初めてこの日月の滝に御降臨になられ、「いまし天児屋命・アメノコヤネノミコト」と仰って鈴木護人氏の肩をポンと叩かれ、「いまし天之太玉命・あめのふとだまのみこと」と仰って古澤禎康氏の肩をポンと叩かれ、「爾(いまし)二神(ふたはしらのかみ)、また同じく殿(みあらか)の内に侍(さぶら)ひて、善く防ぎ護ることをなせ。」と仰ったと芳聖の著書に書かれています。
2、豊川市市田町諏訪林へ転居
戦後、御祖大神(みおやのおおかみ)の御神諭に従い、三浦芳聖は、南朝正統家の嫡孫であると発表したため、「萩村寓居」の家主をはじめ、萩村の主だった人々に毎日のように無名の脅迫状が来たようです。
その上、公職追放中の芳聖を厳重監視する警察官が時々訪れるので、「自称天皇が村に居たらどんな災難が降り掛かるか分からない」と恐れた村人たちから、芳聖は「早く萩村から出て行ってくれ」と毎日の如くせがまれ、家主からも「家を空けるよう」矢のような催促を受けました。
(平成15年12月、特別養護老人ホームが出来た萩町上近久)
芳聖は、百方手を尽くして探してみましたが、愛知県中に家も部屋も貸してくれる所は一軒も無く、昭和25年(1950年)8月10日頃には、行く所がなくほとほと困っていました。
そして、8月12日、行くあてもなく、「今日という今日は家族を連れて路頭に迷わねばならないか!」という危機一髪のとき、豊川市市田町諏訪林(諏訪2丁目)在住の門人古沢武雄(通称・禎康よしやす)氏が、急に芳聖に会いたくなって、自転車に乗って萩の寓居を訪ねて来ました。(この日、福井県武生市で大火事がありました。)
そこで芳聖が「古澤いい処へ来てくれた!実はこういう訳で、すぐにでも家移りをしなければならないのだが、行く所がなくて困っている。何とかならんか」と窮状を打ち明けると、
心の暖かい古沢さんが「8畳一間の狭い所でよかったら一部屋空けますから、うちへ来てください」と助け船を出してくれたので、芳聖は、ぎりぎりの処で路頭に迷わずに済み、8月13日、急転直下、豊川市市田町諏訪林37番地に転居する事になりました。
そういう経過で、芳聖は石もて追われるごとくに萩村を出て、雨露がしのげる所ならどこでもよいと、切迫して転居した豊川市市田町諏訪林の地は、
後で調べてみると、そこは、串呂主宰神が芳聖のために用意して下さった「神風串呂上、最高の天地」でした。
芳聖の生涯は、串呂主宰神の経綸のまにまに、その段階ごとに串呂主宰神が用意して下さった住所地点に導かれたものだったと言えるかと思います。
この豊川市市田町諏訪林37番地(諏訪2丁目)の神風串呂はたくさんありますので、下記を参照ください。
3、後醍醐天皇の御神示
また芳聖が、豊川市に転居した直後の昭和25年(1950年)8月15日、鈴木護人氏と古澤禎康氏を侍らせて大祓神勅の祭祀を厳修していると、丁度正午から一時間「後醍醐天皇」が、芳聖に神懸かりされ、いろいろご神示がありました。
後醍醐天皇は「次の皇位継承者は守永親王に譲位する事という条件はつけたが、私が譲位したのは尊良親王だけである。他には誰にも譲位していない。どうか信じてもらいたい。」とはっきり告げられました。
しかし、三浦家の系図にも、後醍醐天皇の次は、守永親王が皇位を継承したと書かれてあり、尊良親王が皇位を継承したという事は意外であり、証拠のないことなので、芳聖は、すぐには信じられなかったようです。
しかし、三浦家の系図にも後醍醐天皇から皇位を継承したのは興国天皇(守永)となっていた為、芳聖は、すぐには確信が持てず、神風串呂ではっきり解明できるまで慎重を期し、尊良親王が後醍醐天皇から皇位を継承した天皇である事を正式に発表したのは、昭和40年(1965年)4月7日の事でした。
【参照】東山天皇(尊良) (№23)
【参照】興国天皇 (守永・もりなが) (№52)
4、祖母(三浦佐久命)のお告げ
さて豊川市の住居に移ってから、どういうわけか芳聖は、日々体力が衰弱し、体調がおかしくなって病床につき、10月になると何回も吐血があったり、声もしわがれた声しか出ず、起き上がることさえ出来なくなり、命旦夕(めいたんせき)に迫るという状況になりました。
しかし、芳聖は、神界からの何かの知らせか、霊障だろうと考え、医者には掛からず、漢方薬を飲む程度で、神様におまかせして伏せって養生していました。
すると10月のある早朝の夢で「私は貴方の祖母である。ここにいては危ないから大通寺薬師堂か三河八幡宮へ行きなさい」という祖母・三浦佐久のお告げがありました。その時、この話を家族に知らせると、家族が驚くほど芳聖の頭髪は真っ白になっていました。
芳聖は、夢のお告げに従って、古沢禎康氏に助けられて「三河八幡宮」に行き、拝殿に昇殿して参拝した所、古沢さんが芳聖をまともに見る事の出来ない程の強い光が芳聖の全身から放たれ、その後、一気に元気を回復し、髪の毛も元通り黒くなりました。
豊川市市田町諏訪林37番地の芳聖の住所と「三河八幡宮」を結んだ神風串呂が解明されていますのでご紹介します。
「大明神岬」-「大宮」-「三重」-「由良」-「⛩白鬚神社」-「⛩八幡神社」-「⛩尾張八幡宮」-「戸田家」-「卍萬松山大通寺薬師堂」-「⛩三河八幡宮」-「天王」-「三浦芳聖晩年の住所」-「三浦湾」
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文66頁)
また芳聖は大通寺薬師堂(豊川市御油町西沢)の井戸水は、とてもおいしい甘露で、この井戸水を飲んで病気が治り体力が回復したと述べています。
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
情報拡散のお願い
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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