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串呂哲学とは(1)串呂哲学概説

💟はじめに

このオンラインブックは、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を巡行じゅんこうしながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。


元伊勢伝承地と巡行ルート(「幻の邪馬台国・熊襲国」より引用)


元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神皇正統しんのうしょうとう嫡皇孫ちゃくこうそん三浦芳聖みうらよしまさ」が、生涯の精魂せいこんを込めて解明した神風串呂によって、「元伊勢クシロとは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学・神風串呂であることが判明したのです。

神皇正統・三浦皇統家を昭示する神風串呂
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第一章)


地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、真日本国再建のために皇祖神・天照大御神によって構築されました。

ここでは、「串呂哲学とは」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

皇大神宮内宮の嫡皇孫は三浦佐久の子孫(三浦皇統家)である。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章)

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、串呂哲学とは

皇霊学 神風串呂(カミカゼクシロ)は、戦後南朝正統の皇胤こういんであると主張した愛知県豊川市の三浦芳聖(みうら よしまさ)が解明した神道皇霊学こうれいがくの事である。

方角の正確な日本地図(国土地理院発行の地勢図•地形図)を貼り合わせたものと糸とによって、同一方角線上に連なる地名(集落、村落、神社、御陵、仏閣、山岳、丘陵、池湖沼、島、湾 など)を地文として貫線的に考証し、神意を読み取る神秘的な方位学で、神皇正統家に極秘で伝承されたものである。

神風串呂は、神霊・天地神明(サムシング・グレイ卜)の啓示・意図が地文に秘められていて、三種の神器の御鏡みかがみが石鏡であったこと、滋賀県犬神郡多賀町の多賀大社が日本一最高の延命長寿の神社であること、南北朝時代の皇統正史の解明など、さまざまな神意を認識することが出来るという神秘的な神道皇霊学で、神皇正統の天皇家に伝えられたものを、その嫡皇孫である三浦芳聖が生涯をかけて哲学的に解明したものである。

串呂(かんろ・くしろと読むことも ある)という名称は、地名を串団子のように貫線的に考証して神意を読み取る事から、くしみちという象形文字 が充てられたと推察される。

管見によれば、この言葉は、三河吉野朝の研究書『芳花鶴水園の聖地』(山口保吉・昭和18年10月15日)の2頁の叙に「(前略)究宗子自得の古学に憑り神風串呂の根幹を闡明し・・・」(服部美次・本文7行目~8行目)とあり、この(正統天皇の隠棲地である)三河地方に代々伝えられていたことが分かるのである。

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山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』2頁の叙

串呂哲学の名称は、三浦芳聖が昭和31年(1956)に著述した『串呂哲学第一輯-絶対真理の解明』の原稿を読んだ、京都の両洋学園長・中根正親(中根式速記法の創案者)が名付けたと言われている。

串呂哲学は、人間智ではとうてい計り知れない奥深く不思議な世界で、到底人間業で作られたものではないという事から、三浦芳聖は古代から伝えられた神風串呂しんぷうかんろ(かみかぜくしろ と読むこともある)という呼称を愛し、尊重し、踏襲とうしゅうした。単に串呂とか地文学と呼ぶこともあった。

国土地理院発行の20万分の一の地図は、方角が正しい「メルカトール図法」で作製されている。メルカトール図法(角度が正しい図法)は、地球を縦に置いた円筒に投影し、その円筒を開いたもの。経線と子午しご線が地図上でも直交しているのが特徴。

国土地理院の地図に使用されているのはこのバリエーシヨンのユニバーサル・横メルカトール図法(横に置いた円筒を使用し6度単位で処理する)である。

地図投影法の一。メルカトル図法によって、中央経線を中心に東西3度ずつの狭い範囲を投影するもの。日本では昭和35年(1960)以降、国土地理院発行の地形図に使用。国際横メルカトル図法。


串呂地文は、物にたとえると串団子の団子の様なものです。団子には面積もあれば体積もあります。面積は集落の地域的広がりであり、体積は地下に眠る遺跡であり地誌地歴です。串のとおっている所だけが串呂地文ではないということです。

実際、地図の縮尺によって串呂する地文は変わります。(5万分の1の地図では串呂していない地文が、20万分の1の地図では串呂線上にある場合などです。100万分の1の地図上での1ミリは実際の1kmに当ります。)

また、太平洋プレートが日本列島の下に沈み込む関係で、日本列島が隆起したり沈降したり湾曲したりするので、時代によって位置が少しずれる場合もあります。

🔴この世は、高次元世界が投影された三次元の世界ですので神風串呂の基本は国土地理院発行の20万分の1の地図の精度を以て解明されて来ました。

レイラインで検索すると、下記のような画像が出て参ります。この地図の縮尺は一体どれくらいかと言いますと、200万分の1~500万分の1ではないかと思います。

【レイライン基礎知識編】「レイライン」「レイラインハンティング」とは?


この地図が300万分の1の地図であると仮定しますと、地図上で幅1mmのレイラインは、実際は約3km幅の大幹線となります。

神風串呂では、「この世は、高次元世界が投影された三次元の世界ですので神風串呂の基本は国土地理院発行の20万分の1の地図の精度を以て解明されて来ました。」が、上記のレイラインなどを参考にしますと、

串呂の精度(地文とする許容範囲)は、
(1)100万分の1の地図の精度でも良いのではないか。
(2)串呂地文を団子にたとえますと、団子には面積もあれば体積もあり、面積は集落の地域的広がりだと考えると、20万分の1の地図上の串線からやや外れていても串呂の許容範囲であるとする方が串呂主宰神の神意に添うことになる。

と思う事もあります。

2、串呂哲学解明の経緯

三浦芳聖の父「三浦市次郎」は、大正2年(1913)6月、富士登山から帰宅後、体調が思わしくなく、地元の医師の往診を受けつつ病床にせっていたが、病状は一向に回復せず、6月30日の朝、死期を悟ったのか、学校へ行く挨拶に来た芳聖に、学校を休んで看病するよう命じた。

そして、他の兄弟が学校へ行ってしまうと、枕元で看病している芳聖に、三浦家に一子相伝に伝えられて来た「大切なもの」が埋めてある場所を教えて、次のような内容の話をした。

「この度は、到底生き延びることは出来ないだろう。このことはまだ誰にも話していないが、他で事業に失敗して莫大な債務さいむが残っているので、私の死後、三浦家がどのようなことになるか分からないが、三浦家に一子相伝・極秘裏に伝えられて来た大切なものが、お蔵の南に埋めてあるから、数えの21歳になって壮丁そうてい検査(徴兵検査)が済んだなら掘り出して見なさい。

そしてまた別の所に埋蔵して、この事は時機が来るまで自分の後継者になる子供以外には、たとえ将来結婚する妻といえども決して語ってはならない。それが三浦家のおきてである。」

そして、その夕刻、午後5時頃「三浦市次郎」は、家族・親族がそろって、念仏を唱えながら口元に末期まつごの水をつけて見守る中、三医師の看病もむなしく、遂に臨終りんじゅうを告げられたのだが、その今際いまわきわに、突然、ガバッと上半身を起こして、布団の上に座ったかと思うと、 「おくごおりの  ざおうざんより きその みうらやま をみよ! 」と絶叫して息を引き取った。

不思議な事に、この今際いまわきわの絶叫は、その場に居合わせた人々の耳には「わぁ、わぁ、わぁ、わぁ〜」 という意味不明の音声にしか聞こえなかったが、芳聖の耳には「奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんより木曾きそ三浦山みうらやまよ! 」と明瞭に聞き取れたのであった。

この父親の最期の絶叫ぜっきょう奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんより木曾きそ三浦山みうらやまよ!」は「串呂哲学」解明の糸口になる「天啓」であったが、このとき数え年10才の小学3年生であった芳聖には知る由もなかった。

父親が死去したあと、事業に投資したという莫大な債務さいむを支払う為、先祖伝来の山林、田地田畑、家屋敷、屋財家財ことごとく、全ての財産が競売きょうばいに付され、三浦家は破産、一家離散となり、芳聖は、しばらくの間、母親の郷里・岡崎市明見町の宮崎山みやざきざん伝正院でんしょういんに預けられた。

その後芳聖は、蒲郡市清田町の浄土宗西山せいざん深草ふかくさ派三河総本山「楠林山なんりんざん安楽寺あんらくじ」の小僧にやられ、大正2年(1913)8月24日、富永とみなが慶法けいほう老師(後に第88世浄土宗西山深草派総本山誓願寺せいがんじ管長)について剃髪ていはつ得度とくどした。

僧名「慶定けいじょう」、時に数え年10才(満令8才11ヶ月)、小学校3年の夏の日のことであった。

運命の大転換で楠林山安楽寺の小僧となった芳聖の人生は、お寺での午前3時起床という峻烈極まりない修行の日々が始まった。後ろ盾の全くない芳聖は、諸行無常のことわりを骨髄に徹して覚ったが、健気けなげにも天与の運命を受け入れて少年僧侶の道をまっすぐに歩んでいた。

お寺での生活に慣れ、小学校の高学年になった芳聖は、父親が今際いまわきわに絶叫した言葉「奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんより木曽きそ三浦山みうらやまよ!」 が何を意味するのか、とても気になったので、その後、お寺の許可を得て、何度も田原の蔵王山に登って実際に木曽の三浦山を眺めたという。

大正7年(1918)3月、三浦芳聖は、数え年15歳で上洛、中学および仏教専門学校に学んだ。

これは、京都の学生時代のことであるが、田原の蔵王山から木曽の三浦山まで行脚あんぎゃして三浦山に登って見たが、父親が絶叫した言葉の意味は容易に解けるものではなかった。

芳聖は、学生時代のある日、父親が今際いまわきわに絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曽の三浦山を見よ!」の意味を解明するため、国土地理院発行の20万分の1の地勢図を繫ぎ合せ、地図上の田原市の「蔵王山の山巓さんてん」と木曾の「三浦山の山巓さんてん」(長野県木曽郡王滝村)とを糸で結んで見た。

すると不思議なことにその線上に、三浦芳聖の「出生地の牧平大門まきひらだいもん」 (岡崎市牧平町大門)が通っていた。

三浦芳聖は、神秘的な思いでこの線上に位置する他の集落の「地名」を調べた所、出生地の「牧平町大門」のほかに、岐阜県中津川市「付知町の大門」、愛知県蒲郡市「大塚町の大門」と、同じ「大門」 という地名が三箇所も通っていることを発見した。

岐阜県中津川市付知町の大門(地図マピオン)

この発見が串呂哲学解明の糸口となったのだが、このとき、芳聖は、この地文が何を意味するのか全く不明であったという。

芳聖は、この「蔵王山」(愛知県田原市)-「大門」(蒲郡市大塚町)-「大門」(愛知県岡崎市牧平町) —「大門」(岐阜県中津川市付知町)-「三浦山」(長野県木曾郡王滝村)の線上に何か重大な啓示が秘められているのではないかと直感し、さらに研究を続けていくことにした。

愛知県蒲郡市大塚町大門(地図マピオン)

🟢岐阜県中津川市付知町大門
🟢愛知県岡崎市牧平大門(三浦芳聖の出生地)              🟢愛知県蒲郡市大塚町大門

3、串呂哲学経綸の主宰神

(1)元伊勢クシロと串呂

こうした神秘的な串呂哲学経綸けいりん主宰神は誰かについての考察です。

第10代崇神すじん天皇の皇女豊鋤入姫命とよすきいりひめのみこと、第11代垂仁すいにん天皇の第四皇女の倭姫命やまとひめのみことが、天照あまてらす大御神おおみかみ御霊代みたましろである八咫鏡やたのかがみ奉戴ほうたいして、丹波国・大和国・伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡回する道中で、

京都府福知山市大江町の「内宮ないく」(元伊勢皇大神社所在地)、三重県三重郡菰野こもの町の「御在所山ございしょやま」などの串呂哲学上の重要な地名が命名された事蹟が明らかになっています。

また、同じく重要串呂地文である、滋賀県高島市鵜川の白鬚しらひげ神社社記によると、垂仁天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命やまとひめのみことが社殿を御創建(御再建とも)されたと伝承されています。

倭姫命は、近畿地方のみならず、三河地方にも巡行されたことが、愛知県額田郡幸田町高力熊谷の「高力神明宮」の社伝に残っています。「垂仁天皇の御世・倭姫命が天照大御神を奉じて三河路巡幸の際、この地で休息された。その跡地に天照大御神を創祀そうしした古社なり」。

倭姫命は、愛知県田原市神戸町字川坂85の神明社にも巡行されたことが分かっています。この「神戸町かんべちょう」も、神風串呂の重要地文です。下記資料を参照ください。

第10代崇神天皇6年に天照皇大神が豊鍬入姫命を御杖代として伊勢国五十鈴川上に鎮座するまでの89年間、この間の遷幸の地は12ヶ国29ヶ所に及びました。第16番目の遷幸地として三河国渥美の宮(現在の神戸川坂)の地に舟行・一宿されました。大神宮緒雑事記に三河国渥美郡一宿御坐国造進渥美神戸とあり、神宮雑例集には三河国本神戸廿戸號渥美神戸とあり、第17番目の遠江国浜松へ遷幸された後この川坂の行宮の地をこの土地の神戸としてそのまま奉斎し、神戸七郷(青津・漆田・市場・新美・志田・赤松・谷口)の産土神としました。

愛知県田原市 神戸の神明社

元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴氏によれば、天照大御神が、各地を巡回したのは、元伊勢神宮による結界を張るためで、古神道では結界のことをクシロといい、「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べています。(『続・太陽の神人黒住宗忠』146頁、たま出版)

この「クシロ」は、奇呂くしろであり、正に串呂くしろのことであります。当時の人々に串呂くしろと言っても理解させることが難しかったのと、極秘で串呂を構築していた為、結界を張るためと言っていたのです。

天照大御神が、各地を巡回した本当の目的は、神風串呂を構築する為だったのです。皇室守護の結界を張るためだったのなら、愛知県の三河地方や静岡県の浜松まで遷幸する必要はなかったからです。

以上の事から、神風串呂には、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかでありますし、神風串呂の構築が開始されたのは、今、分かっているだけで、この天照大御神の各地巡行の頃であると言えるかと思います。(およそ2000年も前の事です!)。

【参考資料】
インタ一ネットの「元伊勢神社内宮の由来」によれば、第10代崇神天皇は「大宮地を求めしずまつれ」という天照大神の教えに従い、この但波たんば遷幸せんこうし、天照大神をまつる神社を創建した。しかし4年後突然、皇大神はやまとへ帰り、54年後、伊勢に鎮座ちんざしたとなっている。

元伊勢神社内宮の由来

また、広報こもの「御在所山HP」(現在リンク切れ)には下記のように出ていました。

御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川のほとりへお遷(うつ)しするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の 国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮(とんぐう)を 設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。】と出ていました。【参照】御在所山の名の由来(現在リンク切れ)

「御在所山HP」(広報こもの、平成18年6月号 No.550)

(2)佐久久斯侶(クシロ)と串呂

ここでは、神風串呂の淵源えんげん(はじまり)について、古事記の記事を取上げて考察します。

串呂をあらわすと思われる「クシロ」という言葉が『古事記』に出ています。これが現在分かっている串呂についての最初の古典文献です。

『古事記』(天孫降臨)より 
この鏡はもはら我が御魂みたまとして、吾がみまえいつくがごとくいつきまつれ。次に思金おもいかねの神はみまえの事をとりもちて、まつりごとをしたまえ」とのりたまいき。この二柱ふたはしらの神は、佐久さく久斯侶くしろ伊須受いすずみやいつまつる。

(此之鏡者專爲我御魂而。如拜吾前伊都岐奉。次思金神者取持前事爲政。此二柱神者。拜祭佐久久斯侶。伊須受能宮。)(WEB頁

この二柱の神とは、五十鈴宮いすずのみやすなわち伊勢皇大神宮の祭神である天照大御神と思金神と言われています。

そこで、「皇大神宮内宮」(伊勢市)「佐久」(静岡県浜松市天竜区)とを、国土地理院発行の20万分の1の地勢図をつなぎ合わせて糸で結んでみますと、実に不思議なことに大御神おおみか(静岡県駿東郡小山町)を串線しています。

静岡県駿東郡小山町 大御神(地図マピオン)

「大御神」と「佐久」の両地文が、串呂主宰神によって、串呂のために設けられたことは言うまでもありません。

下記の串呂図を参照ください。佐久さく久斯侶くしろ五十鈴いすずの宮の串呂です。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

三浦芳聖が、神風串呂の存在を公表したのは、戦後(1945年以降)のことですが、文献で知りうる最も古い「串呂哲学の淵源」は、天照大御神が伊勢神宮にお鎮まりになられた古代にさかのぼると云う事です。

この佐久久斯侶(クシロ)の串呂に「三浦峠」(奈・吉野郡十津川村三浦)が存在することは、非常に意味の深いことですので記憶しておいて下さい。

奈良県吉野郡十津川村三浦の三浦峠(国土地理院地図)

皇大神宮内宮と佐久の串呂
三浦峠―大日岳―⛩皇大神宮内宮―日出町―佐久大御神

【串呂解読】
この串呂は、「古事記」の「佐久さく久斯侶くしろ伊須受いすずの宮にいつまつる」を地文で視覚化したものです。

 佐久クシロ=地文「佐久」を通るクシロ=上記の串呂です。

この串呂が解明されたことにより、佐久久斯侶は、佐久クシロ(串呂)であることが初めて明瞭になったのです。

三浦芳聖は、上記の串呂について言及し【此の神風串呂の関連性を以て、くの如く神風串呂の地文の上に昭示あらせ給う上は、我が極秘伝の「三浦皇統家の系譜」は正真正銘のものに間違いないと確信する様になりました。】と述べています。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文10頁)

詳しくは下記を参照ください。この神風串呂について分かりやすく解説しています。
【参照】皇大神宮内宮と佐久の串呂(№6)

4、串呂哲学(神風串呂)構築の目的

天王を中心とした十文字串呂、重要地文⭕間がほぼ等距離に構築されている。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章37頁より転載)

まことに残念なことですが、これまでの人類の営みは「強いもの勝ち」「弱肉強食」の歴史でした。わが日本国の歴史もその例外ではありません。勝てば官軍で、戦争の勝者や時の権力者に都合の良いように書かれた歴史であります。

こうした悲しい現実を前にして、我が国の霊的経営をなさって来られた皇祖天照大御神は、何としても正しい皇統史を明らかにしたい。戦争の勝者や時の権力者によって書かれた誤れる歴史(殊に皇統史)をただしたいとお考えになり、長年月掛けてご苦心の上に構築されたのが神風串呂であるのです。

要するに、串呂哲学構築の主な目的は、地文による皇統正史だということです。歴史は時の権力者によってたびたび改竄かいざんされて来ました。文書や石碑の記録は偽造できますし、また焚書・破壊もできます。

しかし極秘で構築されてきた串呂の地文(地名)は、そう簡単には破壊できません。

串呂主宰神である天照大御神は、近畿地方を中心にした我が国土の上に、神風串呂を構築することで、真実の皇統正史を表現しようとされたのです。

後醍醐天皇から三種の神器を継承した内伝の天皇家の嫡孫である三浦芳聖は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』その他の著書によって、後醍醐天皇以降の正しい皇位継承がどのように行われたかを明らかにしました。

三浦芳聖の解明した神風串呂を約半世紀以上にわたって研究して参りました私は、神風串呂構築の主たる目的は、真実の皇統正史「天照大御神の真の継承者(天津日嗣)は誰なのか!」これを明かにすることだと確信しています。

「3、串呂哲学経綸の主宰神」でご紹介した「皇大神宮内宮と佐久の串呂」を例にして申し上げますと、

三浦峠―大日岳―⛩皇大神宮内宮―日出町―佐久―大御神

天照大御神様は、この最も根源的な串呂によって、天照大御神の真の皇位継承者、すなわち真の天津日嗣の天子は、将来「三浦と名乗る」(三浦佐久姫の子孫である)と表現しておられるのです。これは正に地文により、地上に張り巡らされた皇統正史にほかなりません。

5、串呂哲学の理解を助ける予備知識

『ウィキペディア(Wikipedia)』三浦芳聖で後醍醐天皇以降の皇統についての基礎知識を頭に入れて置いて下さい。

【三浦皇統家 系図】
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后-大宝天皇
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-光良親王----睦仁親王

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

三浦芳聖(ウィキペディア・2009年2月11日版)

【予備知識】大宝天皇が皇威の回復を熱祷祈願・大般若600巻を念書
神皇正統第百代大宝天皇(諱・美良=よしなが)は、無二心忠誠の臣らと共に、永享えいきょう10年(西暦1438年)、愛知県額田郡河合村切越(岡崎市切越町)に隠棲いんせいされ、以後、大般若600巻を念書され、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威回復を熱祷祈願されました。

満16年間にわたっての大般若600巻の写経が満願に達した享徳きょうとく3年(西暦1454年)、その至誠が天照大御神の御心に達し、天照大御神のご神諭に従い、大宝天皇は愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門(岡崎市牧平町大門)に移住しました。

【予備知識】天照大御神のご神諭により牧平大門に移住
大宝天皇は、享徳3年(1454)、満16年間の行願満ちて至誠通神、図らずも天照大御神より

「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環てんうんじゅんかんの時を待て!」

という主旨のご神諭をこうむり、神命のまにまに、享徳3年(1454年)牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して、皇后三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫と称し純然たる百姓となられました。

佐久久斯侶(クシロ)の所で、申し上げましたが、大宝天皇が「三浦」という姓を名乗ったのは、たまたま皇后が三浦だったからではなく、神風串呂構築開始の時から、将来天皇は三浦と名乗る事が計画(予見)されていたようです。

串呂の構築が開始されたのは2000年前だと申しました。もうその時に、串呂の設計図が出来上がっていたのです。

【予備知識】牧平大門は天照大御神の神定の地
三浦家の系図によれば、牧平大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であります。

大宝天皇は、享徳3年(1454)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。爾来、三浦家累代450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地でもあります。

6、串呂哲学の創始者三浦芳聖について

明治37年(1904年)9月17日(陰暦8月8日)生まれ。戦前は政治結社「中部国民道場」を経営し皇政復古・昭和維新運動に挺身。戦中は大政翼賛会愛知県支部錬成部長として県下の指導者錬成に当たった。

戦後は、神命により南朝正統の皇胤であることを発表し、神風串呂(串呂哲学)・超能力・三浦家に伝わる古文書・その他の文献に基づき、後醍醐天皇以降の正統の皇位がどのように継承されたかを解明した。

20万分の1の地勢図を敷いて串呂の講義をする晩年の三浦芳聖(1970年頃)

また、戦前戦後を通じ、不明であった遠祖の終焉の地(御陵墓)を調査制定し、神道祭祀により慰霊に努めた。

晩年の日課は、皇祖皇宗の神霊を始めとする有縁諸霊の祭祀と神宮御陵の参拝、神風串呂講究所を設けて神風串呂の解明、門人の育成など。趣味は弘法大師流の書道で、「明徳流・興国書道錬成会」を主宰。号 神龍。

【参照】三浦芳聖(ウィキペディア)


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串呂哲学研究会では、今日では入手不可能な三浦芳聖師の著書を復刻するのに多くの時間と労力を掛け、採算を全く考慮せず、串呂図、表紙画像、系図、中扉などのCG画像作成のために多くの費用を掛けて参りました。

これは、我が日本国と日本民族の将来を案ずればこそであります。皇祖神・天照大御神が、私達日本民族のために、苦心惨憺、長期間を掛けて構築して下さった神風串呂を学びましょう!


🟢後醍醐天皇の皇位を継承したのは誰かについて、歴史資料を示し、さらに串呂で証明した串呂哲学の概説書かつ神風串呂の入門書!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
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🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
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🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

【この続きはこちら】
🔴串呂哲学とは(2) 串呂哲学の解読法

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
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