『太平記』巻18の6「総大将御兄弟金ヶ崎城を脱出)」原文・読み仮名付き
総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。
総大将(そうだいしやう)御兄弟(ごきやうだい)窃(ひそか)に城を御出(おんいで)候(さふらひ)て杣山(そまやま)へ入(いら)せ給ひ、与力(よりき)の軍勢(ぐんぜい)を被催て、寄手(よせて)を被追払候へかしと、面々(めんめん)に被勧申ければ、現(げ)にもとて、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・河島(かうしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)を案内者(あんないしや)にて上下七人(しちにん)、三月五日の夜半許(やはんばかり)に、城を忍(しの)び抜出(ぬけい)て杣山(そまやま)へぞ落著(おちつか)せ給ひける。
(三浦芳聖によると、この上下七人の中に守永親王と女官2名が含まれるという。)
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
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