「『人間は多様だ』と嘘でも言う」怪獣歌会の往復書簡【5】
「君は人間は多様であると思いますか?」と川野に問われた鳥居は、
「ほんとうは人間が多様じゃないとしても、嘘でも多様だって言わないとだめだ」と言います。
いったいなぜそう考えるのか。
そこで鳥居は、こう考えることで鳥居なりに世界を守っているつもりであることを明らかにします。
この文章は怪獣歌会の鳥居と川野の間で交わされた往復書簡の第5回、鳥居の返信を収録しています。
以前の往復書簡はこちらからどうぞ(第5回からでも楽しく読めます)
https://note.mu/quaijiu/m/m8a3a640a2809
※この往復書簡は4往復でいったん区切りをつける予定です。このエントリでは、3往復目の往路を公開しています。
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4往復で一応終えると決めたこの書簡も早くも折り返し地点で、まだまだ続けられそうな気もするし、このノリで毎日続いたら大変だという気持ちもある。困ったね、いや、楽しすぎるよ。
※この時点で手紙は3日で5通やりとりされていました
君の手紙を読んでどうしてもしたい話があります。この話は私が尊敬しているある哲学者の授業で聞いた話で、ずっと心の支えにしているものです。この話にはまたベルクソンが出てきて時間の話をします。
ベルクソンは、時間は持続だ、と言いました。
時間はバラバラの瞬間の集まりではなく、切れ目なく、それこそ宇宙が始まったころからずっとずっと続いているものだと。
前の手紙にも書いたけど、時間は記憶です。荒野でたった一人でつぶやいた言葉でさえ、時間は含んだまま進んでいる。
われわれは時間の先端にいて、その時間の中にはこれまでの過去のすべてがある。あるチェロ奏者が弾いたその一音は、過去に奏でられたチェロ、いや過去に奏でられた音楽すべてがその中に響いているものなんだ、と。だから、自分が例えば花、とか、人、とか、女、とか言ったとき、やっぱりそこには過去に響いてきたその言葉のすべてが鳴っているし、自分が何気なく言う花や人や女の話も、いつか誰かが放つ言葉の一部になっているのかもしれない。
たとえ覚えている人間がいなくなっても、時間そのものが覚えているだろう、とここまで言うと私の信仰なんだけど。
君にとっての言葉というのは、ベルクソンの言う時間に近いものがあるのかな、と思いました。切れ切れの音の集まりではなく、切れ目なく続いている持続の一部であると。君の言う言葉のために生きる、とは、現在という消えゆく瞬間でなく、過去をリスペクトし未来のために書くということなんだろうと思う。私は他者への贈り物をしたい、なぜなら自分より他者は長生きするだろうから、と思っているんだけど、君はきっと言葉に贈り物をしたいんだなあ。(よく読んだら前の手紙にすでに書いてあった!)
こう書いていると、哲学というのは、実際の記憶や会話の中で、そういえばあれ誰々さんが言ってたな、と道具箱みたいに使えるものなんだなと思う。世の中にはいろんな出来事があるけど、私は割とよく「これあの本で見た!」となることがある。ビジネス書みたいに使える哲学!と言う気はないけれど、哲学はその点で、なんでも説明したいという欲望をかなえるものに見える。けど短歌がそんな風に使えるか、というとそんなことはないよね。
たとえもし「この状況短歌で見たぞ!」と思うときが来たとしても、短歌自身はそこから処方を発しない。それは短歌が表現として短いこともあるけれど、哲学は「主にすでにある記憶をもとに構成される」ものであることに対して、短歌は「存在しない記憶を描き出す」ものだからなのかもしれない。
まあフィクション、といえばそうなんだけど、小説は主に出来事を描くことで、それは読者の中の新しい記憶になることができる。けれど短歌が描くのは主に景や心情だから、やけに鮮明な瞬間がフラッシュバックするかのような、私はこの記憶を覚えてないどこかの過去で持っていたんじゃないかと思わせるような、そんな作品が多いんじゃないだろうか。
答えても答えなくても良い君の最後の質問、
人間は多様であると思いますか?
についても、せっかくなので答えます。
もし本当は人間が多様じゃないとしても、嘘でも人間は多様だ、と言わないといけないと思ってます。
多様であることを信じるということは、全然話が通じないとか、訳のわからない理由で攻撃してくるとか、多様であることを認めてくれない人がいるとか、自分に都合の悪い“多様さ”もあるということに目を見据えていないといけないし、それは自分が本当にしたいことだけをするのと同じぐらい大変なことなんだけど。
どうして嘘でも私はそう言うかというと、それが自分を守ってくれるし、結果的に世界も守ってくれると信じているからなのかもしれません。
人類は生存戦略的にはゾウとかトラとかよりもネズミに近くて、とにかく数を増やして、多様であることで繁栄してきたと思っています。そこでは文化は多様さを増やす役割を持っている。農耕文化ができることで、足が速くないやつも生き延びられるようになったように。フェミニズムはその点すごくて、私のようなわけわからん生殖に関わる気もないような人間も死なないで済むよう、社会をちょっとマシにしてくれてる(まだ途中っぽいけどね)。文化のもたらしてくれた多様さに救われてるわけです。
つまり、人間は多様であるし、だからこの社会が支えきれてない新しい多様さもまだある。多様さこそが文化をもっとマシにしてくれるものであるなら、それを守る美しい建前をもつ必要がある。
そう思っています。
なんか口で言うより、書いたほうがうまく誰にも言ったことのないようなことを言葉にできる気がするな。この書簡が終わっても定期的にやりたい。君さえ良ければ。
他者がこわいって話もいずれまたしましょう。そもそも私は君の手紙を真の意味で“読めて”いるのかすらわからないし、こぼしてしまった話もたくさんあるけれど、君の手紙の続きが読みたいのでまた次の機会に回そうと思います。
今回も、最後に君に質問をして終えようかな。答えなくてもいいけれど。
君は言葉が現実をつくる(それは正しいと思う)とか、言葉に刷り込みをうけたと言うけれど、なぜそこにあるのが言葉なんだろう? 君は言葉の人だとはわかっているんだけど、言葉をそこまで大事にする理由を聞いてみたいです。踊りや音楽やコンピューターではなく、言葉を選んだ理由を。
あと、君にとっての他者は、もしかしたら言葉で構成されているのでは、と思ったけど、どうなんでしょう。
2018/06/29 とりい
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次回予告
いまも私は、台風のあと無惨な姿で倒れていた鴉や、夏の舗石の上で干からびている蚯蚓たち、道路に落ちているところを助けようと思ったらもう体の半分がなかった甲虫、駅の構内で、私の手の届かないところで少しずつ死んでいった夏の蝶、そうした、おそらくは私の他に悼むものを持たないだろう死者たちのことを、忘れてしまわないように時々思い出しては数え上げているのだけど、これから先出会う死者が増えていけばいつか私の記憶から溢れ出してしまうだろう、いや、ほんとうはもう数えきれないほどのものを零してしまってそのことさえ忘れてしまったのだろう、ということを怖れています──
次回「どんなものも忘れ去られてほしくない」
7月13日公開予定!
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「存在しない記憶を描き出す」という短歌について知りたくなったあなたは、こちらの一首評もどうぞ。