【一首評】失くしてはカラスのように手に戻る黒いカシミアのカーディガン/花山周子
失くしてはカラスのように手に戻る黒いカシミアのカーディガン/花山周子『風とマルス』
カーディガンはほんとうによく失くす。羽織ったり脱いだりすることで体温調節ができるし、丸めて鞄の中に入れてしまえばそこまで嵩張らない。黒なら色んな服に合わせられて、ちょっとフォーマルな場所でも大丈夫。カシミアだからちょっといいもので、でも、勿体なくて着られないほどの高級品ではたぶんない。つまり便利で、よく着ていくか持っていくかする。だから失くす。
どうでもよいものだから失くすのではなくて、便利で、気に入っていて、なおかつしっくりと馴染んで特段の注目を向ける対象ではなくなっているから失くすのだ。
失くすたびにしかしちゃんと戻ってくるという。生き物であるカラスにたとえて、自分がなにもしなくてもカーディガンがおのずと帰って来るのだ、とでも言いたげな口ぶりだが、ほんとうは自分でカーディガンを探したはずだ。何の働きかけもなしに、たまさか誰かが見つけて届けてくれたということもあり得なくはない。
しかし「失くすたび~手に戻る」ではなく〈失くしては~手に戻る〉であるところがポイントで、普通は主語を同じくする動詞を並列する〈~ては〉が「わたし」を主語とする〈失くす〉とカーディガンを主語とする〈手に戻る〉を並べていることによって、〈失くしては〉のあとにほんとうは「わたし」の動作がもうひとつ隠されているような感覚が生まれる。だからたぶんこのひとは、失くすたびに遺失物取扱所に問い合わせたり、忘れたはずの場所に探しに出向いたりして取り戻したはずだ。
探したのだから見つかるのは当たり前だというわけでもない。
初句から当然のように〈失くしては〉と言い出すあたり、このひとは失くし物の常習犯らしい。だから、失くしたものが見つかる可能性の低さを知っている。一度や二度ならまだいいけれど、何度も失くしているうちにほんとうに失くなってしまっておかしくない。だから失くしても失くしても手元に戻ってくるのは、ささやかな奇跡と言ってよい。
気に入っているからちゃんと見つかるまで探すのだ、と考えれば不思議なことではないのかもしれないけれど。
そんなささやかな奇跡によって、カーディガンには魔力が宿りはじめる。カラスのように生命を持ち、みずから「わたし」の元に帰って来るように思われはじめる。黒という色や〈カラス〉〈黒い〉〈カシミア〉〈カーディガン〉のKの頭韻によって、カラスとカーディガンはごく自然に重ね合わされる。
しかしちょっと待ってほしい。
カシミアのカーディガンが飛んで手元に戻って来はしないのと同様に、カラスもわたしの手元には飛んで来ないはずだ。それなのに〈カラスのように手に戻る〉という比喩が用いられたとき、「カーディガンが手に戻る」だけが前景化されて、「カラスが手に戻る」のは既知の事実であったかのように呑み込まされてしまう。
カラスを使い魔のように使役する、このひとは一体誰なのだろう。魔女?
何度も何度も失くしたカーディガンがそのたびに戻ってくるという奇跡は、カーディガンを何度も何度も失くすことによってしか生じない。カーディガンが生命を持ちはじめ、「わたし」の使い魔になっていくのも、「わたし」がカラスを使役できる魔女になるのも、何度も何度もものを失くしたからだ。
そもそも〈カラス〉や〈カーディガン〉のK音のリフレインは、実はひそかに〈失くしては〉から始まっていた。このひとは失くし物常習犯であることによって、魔法の世界の住人たる資格を得たのだ。
川野芽生