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【一首評】睡蓮のつどふ水平 生きしのちを搬びいださるるひとの水平/小原奈実

睡蓮のつどふ水平 生きしのちを搬びいださるるひとの水平/小原奈実「野の鳥」『穀物』第二号


 「睡蓮」のイメージに、「水平」の文字に、「すいれん」/「すいへい」と繰り返される「すい」に、そこにあるはずの「水」は想起されながら言及されないがために、まるで睡蓮がおのずと寄り集まって〈水平〉を形成しているかのように見える。水面の〈水平〉があらかじめあって、そこに睡蓮が付け足されているのではなく、睡蓮みずからの不思議な浮力によって空中に浮かび、花首を揃えて〈水平〉を形作っているかのように。
 たしかに睡蓮の池を思い浮かべるとき、睡蓮の花や葉に覆われたその下の水面は想像から抜け落ちてしまうような気もする。同時に、〈水平〉という静的な言葉に、〈つどふ〉という動的な言葉が取り合わせられることによって、水底の根から上方へと伸び上がっていく無数の茎の存在が幻視され、水平状態を形成する浮力がそこに生じるのだろう。
 あるはずなのに消される水面。見えないが存在感を放つ蓮の茎。非現実的なものは何ひとつ描かれていないはずのこの前半部は、しかしすでに幻想の領域に入っている。

 〈睡蓮〉と〈水平〉。はじめの二音とそれに続くエ段音までがパラレルになったこの二字熟語ふたつの、四音目の微妙な違いが転調を促す。あくまでひそかな転調であって、大きなカタストロフにはつながらない。〈生きしのちを〉の(「いきちしに」にも似た)イ段音の連続が、息を(最後の息のように?)慎重に細く細く吐き出させる。
 「死にしのち」では不可ないのだ。死は何かを中途で断ち割る刃ではなくて、生の延長上に、睡蓮の茎が伸びていって水面に花をつけるような当然の帰結としてある。水面の花だけを見ては不可ない。
 帰結、といま言ったけれど、死が結びであり終わりであるかはそういえば分からないのだった。それを巧みに示唆しているのが〈を〉で、〈に〉や〈は〉といったある一点を指すような助詞ではなく、「道をゆく」と言うときのような、連続した運動性を示す助詞であることで、〈生きしのち〉の時間の中を通過していくようなニュアンスが生まれる。〈搬びいださるる〉の移動のイメージも(同じ連作に〈剖《ひら》きゆく刃のしびれむか言語野の白さ柔さは雪にあらねど〉といった歌があるのを見ても、病院からの搬出ということになろうけれど)、死が通過点のひとつであることを思わせる。
 〈生きしのちを〉と〈搬びいださるる〉、それぞれの字余りは、字余りのよくある効果に数えられる疾走感や勢いといったものを生み出さず、むしろ、他の音とつなげて発音される長音や「ん」音の不在、またイ段音や「る」の音の連続の読みにくさのためであろうか、みずからを律するように一音一音を確実に発音することを求めてくる。水面(定型)に睡蓮(音)が乗るのではなく、睡蓮が集って水面を作るのだと言いたげに。
 しかし二度目にあらわれる〈水平〉と最初に出てきた〈水平〉の違いはどうだろう。睡蓮の〈水平〉は、簡単に言えば下から上へ向かう力=浮力に支えられていた。〈生きしのち〉のひとの〈水平〉は、上から下への力=重力に沈められてできている。水底から水面へと向かっていく睡蓮と、天の底に(屋外であろうと屋内であろうと本質的には天の底だ)横たわるひと。重力に逆らって垂直に立つという、生きている者にしかない力を失ったからこのひとは水平に横たわっているはずだ。
 それなのに、このふたつの〈水平〉が並べられたとき、目に見えぬ底の方からさわさわと伸び上がって、その〈ひと〉の躰を水平に支える無数の睡蓮の手が、見えてしまうような気がする。

川野芽生

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