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現実と戦うための技術とデザインの関係性

UIとかUXを説明する時によく出てくるハインツのケチャップの話。普通の上向きの瓶詰めだったものが、上下反転して常にケチャップが口に近いところに溜まるようにするというものですね。人類はコロンブスの卵のようなアイディアが大好きなので、聴衆の注意を引くためにとても使い勝手の良い話です。デザイナーにはこういう「単純で本質をついた、あっと驚くアイディア」が必要ですよね。

しかし「製造上の都合や企業の都合でデザインされていた時代から、デザイナーが覚醒してやっとユーザーのことを考えたデザインが生まれるようになった」という認識で、本当に良いのでしょうか?個人的にはこの話の本質は、「製造技術の進化により、デザイン(設計)の自由度が向上し、より使い勝手の良いものを作ることができるようになった」ということに尽きるかと思います。最初は簡易な瓶詰めしか作ることができなかったのが、樹脂技術が発展して、自由な形をデザインすることができるようになり、「ずっと逆さにおいても液漏れしない」+「開け閉めがしやすい」を両立できるようになって実現したものと言えるでしょう。

おそらく昔の人も「逆さにできたら使いやすいのになぁ」とは考えていたはずで、これを昔の「デザイナーはユーザーのことを考えておらず発想が貧困であった」と考えるのはあまりに短絡的です。先人を安易に馬鹿にするのは教養と想像力の欠如の極みです。「アイディア」は誰でも考えることができますが、多くの場合「どうやって実現、社会実装させるか」が圧倒的に重要なのです。プロダクトは実現可能でなくては意味がないのです。審査基準が不明瞭なハッカソンで実現不可能で奇抜なだけのアイディアに評価が集まってしまう悔しさを経験したことがありますよね?みんなあるよね?(私怨

「優れたデザイナーほど技術者の意見をよく聞くものである。デザイナーは社会的に孤立してはならない。良いデザインを世に出すためには、あらゆる人と付き合わねばならない。起業者とか、或いは政治家などにも、然らざれば、彼のデザインは世に到底実現し得ないであろう。」- 柳宗理

ソフトウェアやウェブの世界でデザインをしていると物理法則がない分、どんな荒唐無稽なデザインも「技術的には実現できます」。しかし忘れがちなことですが、柳宗理も言うようにデザイナーは職人やエンジニアを無視するわけにはいきません。素材や技術の力を引き出し、時にはそこからインスピレーションを得て、さらには量産可能なように製造プロセスを考え、職人と協力して1つのものを作り上げる。こんな当たり前なことを現代のデザイナーは忘れてしまってはいないでしょうか。「アイディアだけ」に価値があると、知らず知らずのうちに思い込んではいないでしょうか。

建築の世界でもザハ・ハディッドがコンピューターによる3D設計を利用して有機的なデザインを実現したり(技術が追いつかない時代も長かったですが)、フランク・ゲーリーが複雑な建築を効率的に建てるために3Dや資材量シミュレーション、果ては工程管理のソフトウェア開発から行なっていたり、とかく現代のものづくりは複雑に技術が絡みあう総合芸術であり、もはやそこに実存する全てが尊いように思えます。要はもっとエンジニアリングとのコラボレーションレベルを上げましょうということです。例えばiOSでアプリを作ろうとした時にも、ケチャップ容器と同じようなシチュエーションが増えてきたと感じています。

Facebookは随分前からタブ数6個を許容してきましたし、最近の変更で上部ナビゲーションバーはさらに独自の世界観を押し出すようになってきました。メルカリ、LINEなどの日本勢にもこの流れはあって、明らかにiOSのHIGから逸脱している箇所が多く見られます。また、iOSであってもBookアプリやApple TVアプリなどは現状のiOSから抜け出そうとしているように見えます。

これをどう考えるべきなのでしょうか。駆け出しのUIデザイナーがこういったアプリを模写をしてラーニングし、無邪気なデザインをキラキラした目で持ってきた時に、どう反応するのが正解なのでしょうか。「頑張れば作れないこともないし…。頑固なエンジニアだと思われたくもないし…。」と悩みますよね。

正直、大多数のアプリ制作チームにはこういったデザインの採用は勧められません。変化の激しいVUCAの時代においては、ソフトウェアやサービスの世界における正攻法が「一つの正解を探す」「デザイナーの頭の理想を実現する」のではなく、「プロダクトを変化させ、ターゲットにぶつけ、その反応から理解するサイクルを高速に回す」という状況になっています。この状況において「無限に近いリソースを使うことを許されているわけではない開発チーム」が踏み込んで良い領域は「iOSで標準的に提供されているコンポーネントを利用する」と相当に近似したレベルに限定されてしまうのかもしれません。

オレオレデザインによる独自コンポーネントを利用する場合に、その独自性が影響を及ぼす範囲はきっと想定するよりも広く、後日圧倒的な技術的負債として必ず立ちはだかってきます。アプリがスパゲティの上の楼閣のような状況に陥ってしまうと、さらに変更を加えようとする時に、ほんのちょっとした修正でも「1ヶ月かかります」などの工数見積が上がってくるようになるでしょう。また、OSのアップデートのタイミングで利用できなくなる要素が含まれていた場合などの外的要因によって、強制的に変更を行わなければならず、その修正に数ヶ月レベルで時間を浪費してしまうこともあります。そもそも、コードの属人性も高まってしまってメンテナンス性も低下してしまうでしょう。どこかにモヤモヤを抱えながら様々な要求を打ち返していきながら、定期的にリファクタリングの正当性を説明し、また数ヶ月のリソースを手に入れて、外から見た時に時間の止まったアプリとして認識される悔しさは、アプリ開発に関わる者ならば誰でも経験したことがあるのではないでしょうか。その間にもさらに積み重なるビジネス要件、追加機能、UX的改善要望、そして現れる競合…。

繰り返しますが、成功に向けてプロダクトを進化させるためには、開発スピードの低下だけは極力避けなければなりません。「一回リリースしてたどり着ける正解」なんてものは存在しません。総合的に見て「もっともユーザーについての学びを積み上げることができる道」、そして「このチームで最も早く、遠くまで行ける道」を探すべきなのです。

一方で、世界にはそんなことを問題としない優秀なエンジニアを大量に抱えているような企業も(相当限られますが)存在します。アメリカではFacebookやTwitter、Uber、AirBnBなど巨大なユニコーンが結構います。もはや当然のように中国企業も活況です。トウチャオや美団、タオバオ、ele、Walkupなどのように独自路線を突き進み、いくつかは圧倒的な収益を上げ、いくつかは圧倒的なユーザー数を誇り、という現実が既にあります。最近は日本でも浸透したTickTokやZenlyのようにコミュニケーションアプリでもほとんどOSピュアな構造を捨てて、もはやゲームのようなインタラクションもりもりの独自UIが乱舞しています。ウキウキしますね。(散々否定しているようですが、こうしたレベルの高いものを知っておくことはどの職種でも当然行っておくべきことだと思ってます。相対的な現在地を知らないとどこにも行けないので。)

さらに、非ゲームアプリに対して圧倒的な売上を上げるゲームのUIがOSのガイドラインをことごとく無視できるのはなぜでしょうか。初めから打率で考えてマネジメントしている世界で、長年「それが成り立つように産業が発展」してきた凄みがありますね。ゲーム性、世界観、様々な領域のアート、インタラクションに投資をするという決断を行った上でのプロダクト量産体制があり、僕らが学ぶべき部分が相当にあります。

などなど。少々辛い現実ですが、僕らは現在持てる戦力でこういった世界と戦っていかなければいけないことを自覚しないといけません。堅実な構造の上で可能な限り高速開発を回し、その制約の上で落とし所を見つけるデザインを作るのもよし、あえて独自実装のイバラの道に飛び込むのもよし。肝要なのはその時その時でリスク(これはもちろん「現在」ではなく「未来に起こるかもしれないシナリオ」を指します)を認識して判断することです。

各人が美学と工学の両方をつかんでいなければ本当はダメなんです。すなわち、アート、デザイン、サイエンス、エンジニアリング、そしてビジネス、この5つのランゲージを全部しゃべれて、すべての世界に翻訳するに耐え得る深いアイディアだけをやろうとしなければ、これからは一切戦えない。」- 石井裕

デザインとエンジニアリングと現実の世界をつないで成功に向かうための知見を、もっと成熟した戦略を求めなければ、僕らは無限に資源をロスしていくだけになってしまいます。産業として経済的に立ち行かなくなって挽回不能になってしまう前に、少なくともフランク・ゲーリーが嘆くような地点に僕らはいつかたどり着けるのでしょうか。

「建築家という職業には偉大なる未熟さがある。建築家は世界を救えると考えているだろう。ただし、歴史は、われわれが何もなし得なかったと証明している」- フランク・ゲーリー

僕らは「現実世界と対話しながら進化し続けることができる」ソフトウェアの特性を活かしたものづくりを確立することができるのでしょうか。

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