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本棚の他人 tinder編

 Tinderでマッチした男とバーで飲んでいた折、「うちの画集見る?」と尋ねられた。
デザイナーをやっているという彼は口先とメガネのフレームで軽薄さを振り撒きながら、この薄暗い照明よりはデザイン案を小脇に抱えながら蛍光灯の下にいる姿が似つかわしいようで、私はこの店に来るまでに求めていた緊張や高揚ではなく、同僚のような親近感を感じていた。
 それはそれとして、画集。確かに気になる。趣味合いそうだし。デザインの本見たことない。お前の本棚見てみたい。口説きの文脈はさておいて「本棚だけ見て帰っていいですか?」と真正面から了承を得て、私たちはタクシーで家に向かった。

 「いやーでもセックスしないのにわざわざタクるのも申し訳ない気がするんですけど、いいですか?」

 家に行くことや利益の提供を受けることは性的同意と直結しない。とはいえ、何かを期待している様子の他人との合意形成をしておくのはトラブルに向かって突進する際の安全帯として有用だ。

 一切の性的同意なく本棚合意だけを首尾よく済ませ、ついでにコンビニエンスストアで酒を買いこんでタクシーを連れ立って降りた23時過ぎ。マンションというよりは完全にアパートであるところの薄暗く縦に伸びた現代的長屋とでも言ってしまいたい建物にたどり着いた。前を歩く細長い人間が狭くて長い構造物の中を吸い込まれるように進んでいくものだから、どこかで部品にでもなるつもりだろうかと後ろ姿を見ながら思案した。こんな家に住んでそうね。こんな家に住んでそうな人だから。そっくりそのまま想像通りだ。
 視点をあちらこちらに浮遊させ案内人についていく。携えていた平坦な心情は、音の響く路地に面した階段を登り部屋の前に来ると途端にはずみだした。扉を隔てたその先に発見がある。見知らぬ空間に固有の生態系がある。一体何を見つけ出せよう。全て知り尽くしたいのに。

 そんな期待も敷居を跨ぎ目前に広がった、外観とそっくりな味をした四角い白壁の一室と対面した途端に落ち着いてしまった。半端なアンティーク調のオークとメタリックな黒でところどころまとめられ、蛍光灯の無機質な光とチープな間接照明の暖色が混在する色気のない部屋。特に見るべきものもない独身男性の部屋になんの感慨も湧かない私は当初の目的を思い出し、狭い足元を警戒しながら玄関へキッチンへリビングへと数歩で役割のある部屋を移動しながら、右手に広がっていた想像よりもぶっきらぼうな本棚を覗き込んだ。

 壁一面を埋め尽くした艶のない黒のスチールラックにはこれと言ったストッパーもなくまばらに本が並んでいた。思い思いに入居した、互いに素知らぬ顔をする本棚の住人たち。申し訳程度の区画整理の目隠しに置かれたオブジェがわたしを見上げる。乱雑な生活が基調をなす集合住宅から目についたものを次々と拾い上げ、時間はあっという間に過ぎていった。硬質なコマーシャルデザインの応酬、安い哲学書、12年前の展覧会図録、知り合いのZINE、新社会人向けの啓蒙書、ファッション誌の切り抜き、背の低く分厚い身体をした何かの全集、見知らぬ女性作家の叙情的な散文、堰を切って表現の濁流が流れ込むさまは、刹那的な気分と合わさり誰かの走馬灯のよう。

 「かわいいね。」「触れたいな。」「こんな趣味の合う子他にいないよ。」

 背中に投げかけられる言葉は目前に並ぶ粒揃いの誘惑者に比べればどれも弱弱しく、意味に到達する前に霧散していた。耳が、目が、前を向いているのは必然の設計なんだろう。
急いでページを捲りながら、あと3分で帰ります!と口走りながら、買った酒を一気に飲み干しながら、背中に「本当に帰るんだ……」という驚きを浴びながら。

 断片を読み終えた自費出版の散文を目の前の隙間に押し込むと、大股数歩で雑多なワンルームを飛び出し、住人向けのゴミ捨て場に空き缶をシュートした勢いにのって、陽気な春の中目黒を走り抜けた。

 最終電車のなかで急激に回った酔いを受け止めつつ、意識は二度と会わない本たちの空間へ向かった。階層化された関心事項。そこに漂う時間と関係性。有限な時間を意識しながら緊張を携えて消費しようとした彼らの背表紙が、私に無関心に並ぶさま。閉じた本は開かれた本よりも、二度とないものは未来よりも待ち遠しい。薄埃と乱雑な隙間があたためる本たちのくたびれた親密さに比して、彼らの所有者の存在は奇妙に希薄だった。記憶の中で、他人の本棚は他人の顔よりも存在を増していった。

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