日本の戦後とは何だったのだ 公務員法改悪がもたらした75年の呪縛
菅政権発足という悪夢
安倍晋三がようやく政権を放棄したとき、彼の辞任を待ち望んでいた私たちは手放しでは喜べませんでした。改憲が阻止できたことは大きな成果ですが、「日本を世界で一番企業が仕事をしやすい国にする」という公約は非正規4割で株価だけ好景気という歪んだ経済として見事に(!)達成され、コロナ禍のなかで、自粛警察、マスク警察などが現れるという、ニッポン人の反人権・人権放棄の長年の風潮は強化されて、まさに「日本を取り戻す」という彼の公約通りであり、あの信じがたい安倍一強をもたらした小選挙区制と内閣人事局が残り、国民の投票率は依然きわめて低いからです。
そしていま、彼の政権の行った数々の悪行の実行部隊長だった菅義偉が、自民党お決まりの茶番劇を経て首相となり、それを世論調査では国民の64〜74%が支持すると回答するありさま。世論調査が、支持不支持の曖昧な回答者にどちらかの回答を強いるというような、悪質なものであったからだとしても、あんまりではないでしょうか。
彼は、日本学術会議のメンバーのうち安倍政権に批判的だった学者6人の着任を拒否するなど、露骨な脱法の独裁者ぶりを見せています。立民の石垣のりこ議員の些末な表現はネットで炎上して党から叱責される一方、杉田水脈議員の、オッサン連におもねって性犯罪被害者、とりわけ伊藤詩織さんをうそつき呼ばわりする女性蔑視の旗振り発言は、そんなことは言ってないとしらばっくれた挙げ句、「精査」したらそういう発言があったなどと認め、形ばかりの注意で終わるという本末転倒のなか、菅氏は原宿の店にメディアの提灯持ちや茶坊主を招いてパンケーキをぱくついたりしています。
安倍晋三の恐ろしさはその凡庸さにありますが、菅もそれをより徹底した形で引き継ぐ、まるで無自覚な独裁者です。
日本国民の政治に対する無関心と言われるものは、誰にとって都合がいいのでしょうか。じつはそれこそ、財界の意をていした戦後の自民党政権の一貫して目指して来た成果であることを、以下に述べます。私がこんなことを書くのは、インテリはいろんなことを細かくくわしく知ってはいても、本質的な大筋をあまり見ようとしていないと思うからです。
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反人権、政治的無気力、これは日本の伝統か
森友学園の瑞穂の國記念小學院の用地取得に絡む汚職を隠蔽する政府の工作が招いた近畿財務局の赤木俊夫さんの自殺は、夫人が佐川元理財局長を告訴するに至りましたが、こういう場合に、どうして赤木さんのようなひとが自殺しなければならないのかということは、あまり問われることがありません。諸外国では、あのような場合、辞職して野に下り、自分の元職場を告発するというポジティヴで建設的な途を選ぶことができるはずですが、日本ではそうならないのです。
あるいは電通の高橋まつりさんのような立場に置かれた労働者も、外国であれば、自殺などせず、会社を辞めて、会社を公然と批判することが珍しくありません。日本でそれができないのはなぜでしょうか。
2003年、イラク戦争開戦の3日前、先進国では開戦に反対する夥しい数の市民によるデモが行われました。数十万繰り出した国もあり、スペインでは一つの都市で100万を超え、300万のところもありました。ところが、日本では全国を合計しても4万程度でした。いったいなぜ日本では国民の政治活動が低調なのでしょうか。
これを国民性などと言って片付けていては、こういう現実の永続に加担することになるでしょう。また、一部の人の主張するように明治維新などに話を広げても、問題が拡散して焦点ぼけしそうです。日本の戦後史に原因があると考えるべきです。戦後史の中でも、特定の国との、あるいは政治家間の密約などではない、誰もが日常知っていながら見過ごしている大きな枠組みに目を向けるべきでしょう。
コロナ禍のなかでも、日本は他国とは違う国だから大丈夫だなどと、いい年をした大人が白昼堂々と言ったりします。日本人は日本という国が特別な国だと思いたいようです。そしてそれが愛国心だと思っているのです。「私を世界一美人だと思ってくれないなら、私を本当に愛してはいないんだ」と言い張る女性がいたら滑稽だと思います。国だって同じことです。呆れるほかありませんが、それというのも、自分の国を客観視するための基礎知識がないからです。中学や高校で、近現代史を学んでいたら、安倍政権に4割もの支持(世論調査を信用するならば)を与えるなどということはなかったでしょう。
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敗戦直後から逆コースへ
太平洋戦争に際し、米国は対戦国日本の実情を綿密に調べ上げていました。そして、日本があの無謀な戦争をしたのは民主主義が未発達だったからだと正しくも見抜き、それで生まれたのが憲法でした。
ところが朝鮮情勢が怪しくなると、GHQ の中でも右寄りの部分が力を得ました。
1948年1月にロイヤル陸軍長官の「東アジアを反共の砦に」という発言があり、同年7月にマッカーサーが日本政府によこした書簡にもとづいて、政府は政令201号を発したのですが、そのなかで、労組を抑える有効な施策として公務員のスト権を剥奪することが示唆されました。それが48年と50年に法制化されたのです(国家公務員法98条、地方公務員法37条)。財界がこれを歓迎したのは間違いないでしょう。逆コースの始まりです。(1)
せっかくの憲法も、施行のその年からすでに、憲法のせいで若者が悪くなったという法務省のデマが、右派のメディアによって書き立てられたのです。少年の凶悪犯罪が増加しているというのは警察白書にも反したデマですが、そんなものが長い間流されてきました。この国の支配層の民衆敵視が露骨ではありませんか。(2)
労働運動を押さえ込んだことは、ソ連による占領から日本を守る結果となったかもしれず、その点では、評価すべきなのでしょうが、復興だ繁栄だと自画自賛した経済成長の中で、右肩上がりを期待した国民が、仕事仕事仕事の働き蟻になりはてていったことは、プラス面を無価値にしてしまう大変な損害です。(3)
復興と繁栄は何によるものだったか
その不満を埋め合わせたのが経済成長のもたらした便利さと表面的な贅沢です。そんなもので満足しなければならなかったから、住宅費と教育費という基本的な点では、ますます重くなる負担を背負い込んだままなことに気づかず、バブルのときでも決して余裕をもつことはできなかったのです。
労働者にとってストはかけがえのない経営者との交渉の手段です。それが非合法化されたのに、労組と野党は効果的な反撃ができないまま、後退していってしまったのです。
欧米でストが行われる場合、一般のひとは、迷惑しても非難しません。日本ではメディアがスト、デモを悪いことだというキャンペーンを張ります。それで、法規に則って行われた国鉄の順法闘争すら非難を浴び、いわゆる民営化が達成されてしまいました。(4)
公務員がストに参加できない日本ではゼネストが不可能です(産業の二重構造、そして労組が産業別でなく企業別であることも与ってです)。
公務員のスト権があったら、公営企業の私営化にゼネストで強く抵抗できたはずです。
社畜社会とそれがもたらしたもの
終身雇用制とそれによる企業と従業員のまやかしの一体感もきわめて有害です。これで個人は企業のなかに埋没し、一社の社員全員が自民党に投票するというように、同調圧力に屈するばかりではなく、憲法22条1項によって保障されているはずの職業選択の自由も踏みにじられるのですから、憲法に違反した制度というべきです。そして、ひとつの企業のことしか知らない視野のせまい人たちが、まるで社会全体を見渡したかのように思い込むという悪しき風潮を生みました。評論家、佐高信氏の「社畜」というコトバは、じつに的確です。終身雇用が戦前に起源をもつものであることも、財界の民衆支配の意志の根深さを示すものでしょう。。
日本では労組の幹部が会社の重役に取り立てられます。階級的裏切りの制度化です。欧州の少なくともいくつかの国では、企業の経営者代表と労組代表が対等に協議できる経営委員会はありますが、労組幹部が重役になったりはしません。
終身雇用と新卒採用が一般的なおかげで、次の勤め先が見つかりにくいから、日本人は自分の勤め先を毅然として退職して公然と批判することが困難なのではないでしょうか。
終身雇用で豊かな老後が保障されるというのも、大手企業だけのことでしたから、我が子を一流企業に就職させようとした国民の多くが、子を受験競争に駆り立てる、世界に悪評高い日本の教育の尖兵となりました。住居費と教育費という重荷がなかったら、日本人はもっと自由に生きられたはずです。カタツムリのように自分の家という重石を背負って歩く国民たちを見て経団連などの支配層は安心なのでしょう。
そんな企業で働く労働者の組合が、してくれたことのうちでも見逃せないのが,世界に名高い労使協調です。代表的な例は、1973年のオイルショックのときに見られた賃上げ要求自粛です。財界が、賃上げはコストプッシュインフレを起こすから自粛しろと恫喝すると、大労組はおめおめとそれを飲んだのです。OPECの油価引き上げで日本経済は立ちゆかなくなると騒ぎながら、実際は貿易黒字を積み上げ、デトロイトで日本車ぶっ壊しパフォーマンスまで行われたほどの「経済繁栄」は、国民の犠牲のうえに達成されたのです。あげくが80年代のバブルでした。
受験戦争とも言われた受験競争が、経済成長と終身雇用の産物であることは指摘されませんが、この競争のなかでは、学校でさせられるのは入試で期待される解答を覚えることであって、自ら何かを考える力などは邪魔ものでしかありません。基礎研究が貧しく、イノベーションが生まれず、実力のある人材には外国に逃げられてしまう日本企業に似合いの人的資源の大量生産です。
このように「繁栄」のために日本人が支払った代償のうちでも、これまた決して見逃せないのが、逆コースの中で、教員の自主的教育が抑圧されたことです。
教師が校門に待ち構えて生徒のスカートの丈を測ったり、天然パーマの生徒に美容室でパーマで髪をまっすぐにさせ、生来赤毛の生徒に黒く染髪させたりするというような、笑いたくなるようなグロテスクで硬直したニッポン名物の教育も、このような中で親によって歓迎されてきたのだし、彼らのなかには戦前への郷愁をもつ者がいるからこそ、日本会議などというものが幅をきかせるのでしょう。1996年には林道義の『父性の復権』などという、全ページ性差別、子ども蔑視、家父長制への郷愁と、非論理に満ちた本がミリオンセラーとなり、そこから「親学」などが生まれ、子どもを大人の言いなりになる人間にしていくための「教育改革」が画策されたのです。
日本の教師の悲惨
このように「繁栄」のために日本人が支払った代償のうちでも、特に見逃せないのが、逆コースの中で、教員の自主的教育が抑圧されたことです。
自主的教育の権利を奪われた教師は子どもに近現代史、憲法、労働法制を教えられなくなっていきました。そんなものを教えればアカ呼ばわりされます。
電通の高橋まつりさんも、中学か高校で近現代史、憲法、労働法制を勉強していたら、毅然として不当な酷使を拒否して自己の権利を守ることができたでしょう。
日本の若者の多くは近現代史を学ぶことなく大学を卒業します。日本人ほど今ある自国の生まれてきた経緯を知らない国民はまれです。どこの国も、近現代史の大枠は若者に教えます。近現代史とは人権推進の歴史であり、旧植民地国にとっては独立の歴史だからです。それを中国や韓国の学校で子どもに教えると、反日の偏向教育などと謗るのは傲慢かつ愚かなことですが、それも近現代史を知らないからです。
沖縄、広島長崎への関心の薄さも近現代史を知らないことが重要な一因となっているはずです。さらに、あの戦争に駆り出された親たちが子どもに戦争体験を語らなかったのも、国民の意識に重大な欠落を生みましたが、もし私たち子どもが学校で近現代史を教わっていて、その知識をもとに親の体験談を聞き出すということが津々浦々で行われていたとしたら、親たちの実体験にもとづく膨大な情報のストックが民間で当たり前のものとして形成されたにちがいありません。
持ち家政策から不動産バブルまで
持ち家政策は、資産価値を増やすために地価上昇を期待する風潮を生みました。だから、田中角栄や中曽根康弘のように人為的に地価を暴騰させる首相が糾弾されなかったのです。その挙げ句がバブルとその崩壊です。
中曽根のごときは「これからの日本は技術(コンピュータ)立国だから東京に一極集中」などというデタラメを平気で語りました。コンピュータは分散を可能にする技術なのに、何が一極集中でしょうか。日本のメディアはそれを疑問ももたずに書きたてたのでした。
日本の人口1億3000万のうちでも1300万を占めるまでに東京がとほうもなく肥大した日本は、いまや、大災害や戦争で首都が崩壊したら、国の中枢機能を代わりに引き受けられる都市が存在しないという状況です。案の定、いまやコロナの蔓延源となっています。
持ち家政策はまた、職場と家を異常に遠くしました。それが通勤による疲労を重くして、帰宅すればテレビの愚にもつかない娯楽で疲れを「癒される」ほかない生活を勤労者に強いたし、労組にとっては遅くまで残って組合活動をすることが困難になりました。
大学まで教育は無償が当たり前なのに
住宅費とともに私たちの家計を圧迫したのは教育費です。それについて、くわしくは、私のノート「大学まで教育は無償が日本の国際的義務」をぜひお読みください。
日本の戦後とは何だったのだ
日本人の政治無関心は、このように支配層が企んで推進してきた高度成長、終身雇用制、持ち家政策、教育による国民茹で蛙システムの産物ですが、公務員法はその全構造を目立たない形で下から支えるカナメの位置を占めると考えてよいと思います。(5) そして、おそらくそれと並ぶのが、所得税を給料から天引きし、個々人が自分で税務署に納めないという、まことにパターナリスティックな皇国独自万邦無比の国民受動化政策です。
敗戦後、日本人は、経済復興を成し遂げればバラ色の暮らしができると信じ込んで、ひたすら働きに働き、経済高度成長を達成しました。生活のほんのわずかな隙間に思ってしまうことを、ふと立ち止まって凝視し、考え続けていくというようなことは、役に立たないこと、暇人の遊び、忙しいことが美徳という貧乏人根性で生きてきたのです。明治以来の西洋に追いつき追い越せの基調の上に、復興がすべての我武者羅働き主義が重なったのです。
私たちが「一億総中流」などと呼んできたのは、以上のようなものです。戦争に負けたのを国民全員が天皇に詫びる一億総懺悔の国民が言いそうなデタラメですが。
しかも、その高度成長も、中国が賠償請求権を放棄してくれて、そのあと朝鮮特需、ベトナム特需があったからで、近隣の多大の災難を利用して実現したものです。これから経済二流国に転落し、円の価値の低下した日本を見る近隣諸国のひとは、必ずそのことを思い浮かべると思います。
私たちにとって、公務員法の再改正によって公務員のスト権を奪い返すこと、所得税は自分で納めるように変えることは不可避の道でしょう。(6)
付記
(1) 逆コースの中で、教育委員長公選制も廃止されるに至ります。終戦直後には子どもたちが自分で学校を作って運営するという試みすらあったのですが。
(2) 労働運動敵視によって、警察予備隊も生まれ、それが保安隊、そして自衛隊と名称を変えて、世界で6位の軍備を持つに至りました。
(3) 蟻については、イソップの蟻と蝉の話が有名ですが、イソップの別の寓話のなかでは、蟻は本来人間だったが、吝嗇なのをゼウスに嫌われて、小さな虫に変えられてしまい、それでも吝嗇をやめなかったとされ、人間の悪い習性は治らぬものだという教訓が記されています。だから、夏の間楽しい歌を歌ってくれた蝉が冬に飢えているのを冷酷に嘲るのです。生活保護受給者を罵るひとたちと、なんとよく似ていることか。ベーシックインカムは怠け者を増やすだけだなどというひとはまさにイソップが糾弾する蟻です。
なお、イソップの原話では蟻と蝉だったのが、私たちの多くが知る蟻とキリギリスになってしまったのは、英国に蝉がいなかったため、翻案されてしまったからです。私たちは英語経由でイソップを輸入したのでした。しかし、それでは、夏の盛りに唄を歌って、みんなを楽しませたのに、という言い分が浮いてしまいます。まるで、コロナ禍のなかでのミュージシャンや俳優みたいではないでしょうか。
(4) 権力者にほかならぬ財界が民を僭称するから、民営化などと言えるのです。正しくは私営化です。財界人が、まるで今なお江戸時代の士農工商が続いているかのような表現を踏襲しているのは、欺瞞の最たるものです。
日本で「民営化」と言っているのは英語ではprivatizationつまり、私営化です.
(5)所得税が勤め先企業によって天引きされるというのも、税の負担についてのリアルな感覚を希薄にしており、かつ、企業が従業員の親みたいな感覚を助長しています。
(6)憲法28条 勤労者の団結権と団体行動権 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
自民党が平成24年に公表した改憲案では、次のようになっています。
<第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、保障する。
2.公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に指定する権利の全部または一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。>
憲法学者の弁護士伊藤真氏がこの草案につけた批判的注釈は次の通りです。
<公務員の人権制限の根拠を「全体の奉仕者」に求めることには、現憲法の解釈上も学説からの異議が強い。公務員制度改革の一環として協約締結権が認められるなど、公務員の労働基本権保障は拡大しつつあるが、この(改憲案の)規定はその障碍となり、権利拡大に後ろ向きな態度が現れている。>
自民党はちゃんと公務員法の重要性がわかっているのです。当然です。「全体の奉仕者」だからストをやってはいけないというのは、苦し紛れのこじつけで、意味をなしません。洒落ではなく、これこそまさに全体主義というものです。アベ政権のような独裁政権に従うのは明らかに全体の奉仕者たるの道から外れたことですから、今霞ヶ関で働いてる公務員の多くは違憲行為をしていることになる。実際そうです。
付記 なお、この自民党改憲案には、文法的に許しがたい誤りがあります。
『「自民党憲法草案」を文法的に見ると・・・』